どこかで 日記20220825

故人に似た人を見かけた。顔は見ていないが、後ろの立ち姿やシルエットがそっくりだった。昨年、コロナで亡くなってしまった取引先の部長である。

仕事関係の人間にそこまでの情緒を感じることは少ない。あくまで仕事として距離を置いて仕事をしているし、会わなくなるのはたいてい仕事の切れ目のため、清々した、という気持ちが強い。

件の亡くなった部長は、1年目・2年目の際に上司とともに世話になっていた顧客で、大阪の古い商売人という気質と、娘がいるため若手社員には無理を押し付けづらい、という大変人間的な性質を併せ持つ方だった。
それなりに大き目の案件で、上司と二人がかりでOJTも差し置いて客先に足を運び打合せを繰り返し、ほとんどそれしかやっていないような一年だった。現場でも何度も顔を合わせ、時に叱られながらなんとか案件として完了した記憶はまだ残っており、職場の外で自分を育てた人間というと五本の指の中では名前を挙げられるだろうなと思っていた。よく怒り、よく笑い、声が大きい。豪快なのに、妙に人間関係に繊細なところがあって、苦心もしたが、まあなんとか頑張ってあげたいなと思う顧客だった。

訃報は突然だった。もう該当の部署を離れて3年ほど経つが、元上司から短いSMSで届いた。
先述したように、コロナに罹ってしまい、家族にも看取られることなく亡くなってしまったらしい。

もともとその部長が大阪在住であったこともあり、「もういないのだ」ということを、もしかしたらまだ理解できていないのかもしれない。
毎日会う人でもない、細い細い繋がりだったはずなのに、やはりその人がこの地球上のどこにも存在しなくなるということについて困惑し、理解できずにいる。

今日、かの部長に似た姿を見て、急に「故人である」ということが鮮明になった。不思議だ。まだ生きているんじゃないかとか思ってしまいそうだけれど、似たものを見れば見るほど、それが「そのもの」ではないことに気づいてしまう。そして、その不在をより強く感じるようになる。

さみしいとは思わないが、少しだけ自分の人生に穴ができたような感覚。

今から書くことは適当な散文だが、「似ているが違う」と感じてしまうことこそが唯一無二性なのかもしれない。その人がその人であるアイデンティティは、多分どれだけ自分の中で確固たるものとして持っていようと、他人に「君と彼は全く同じである」と定義されてしまったら、社会上は同じIDと考えられてしまう可能性がある。だが、人間は時間という軸の中で他者と各自独自の関係性の中で、どれだけ似ていてもやはり違う、という感覚で個人として確立されていくのではないか、などと思う。

……だから、個人的に十把一絡げの呼び名とか、妹とまとめて同じ人間として扱われたりするのが嫌いなのかもしれない。

ああ、でもそうすると、「昔はこうだったけど今はこう」という、同一人物の時間軸による変化に関しての考え方が難しくなるなあ。
昔ゼミで、誰かが時間による人の変化と同一性について話していた気がするんだけど、どの哲学の系譜だったか全く思い出せない。こういうとき真面目に勉強しておけばよかったかもなあと後悔するのだけれど、今更なのでもし「この人物がクリティカルだよ」みたいな著書があれば教えてもらえるとうれしいです。


そういえば埋め込みにいろいろ対応が増えたみたいですね。ナイス運営氏。ありがとうございます。


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