統一経済成長理論から批評する「老人切腹」論

統一成長理論とは

 これから説明する見方は、著名なダロン・アセモグルらの経済学教科書で採用されている(「7.3 経済成長の歴史)。日経でもオデット・ガローの「統一成長理論」として取り上げられた。このごろ有力理論となっているようだ。以下、こうした考え方を「統一成長理論」と呼びまとめてしまおう。

統一成長理論は、「人類の歴史における経済成長の過程を統一的に説明することを目的としたマクロ経済学の理論」*である。
本記事の文脈では「3人きょうだいのリソースを1人に注げば、その一人っ子は美味しいもの食べられるし、大学にも行ける」という含意がある。詳しくはWikipediaで。

 前近代社会の農村では、苦労して生産高を増やし稼ぎが上がっても、その余力を新たな子どもを産んで注ぎ込むから、1人1人の子どもは貧しいままだった。マルサスの罠と呼ばれる。マルサス・モデルでは、生活水準が生存水準以上になると、夫婦は子どもの数を増やす。だから子供たちはみな生きていくギリギリの水準で暮らすことになる。
なぜ子どもを産んでしまうのだろう。理由の一つは、現代社会と異なり、1人っ子を有名大学に行かせるため教育に集中「投資」するといった子育て戦略が取れないためだ。

 その理由はこうだ。例えば江戸時代には自動車が無い。だから仮に自動車製造のために工学を学べても、キャリア形成に繋がらない。つまり親が教育に資源を注ぐメリットがない。親も農民なら子も農民になる。だから前近代的な農村だと、学校に通わせるくらいなら(=学校に通わせると子どもという労働力が無くなる)、もっと子どもの頭数を増やし、仕事を手伝わせた方がよい。
加えて、医療も発達していないから死にやすい。一人っ子はリスクヘッジの観点で不利なのだ。だから社会は多産多死傾向になる。

ところが近代化が進むと、教育という投資が引き合うようになる。子どもは賃金のよいエンジニア職に就くために、文字の読み書きを学び、教科書から工学を学んで、機械のメンテナンスや操作マニュアルなんかを理解しないといけない。エンジニアのような新たな職を求め、農村から人々が移動する。こうなると親が産む子の数を減らして、1人頭の教育コストを増やす戦略・将来のビジョンが、引き合うようになる。

 要するに統一成長理論によれば、我々が今豊かな暮らしができているのは、前近代や戦前に比べ、大幅に少子化したことの恩恵という面がある。
具体的に、結婚した夫婦が生涯で産む子どもの数を比べると、ある推定では徳川農民は5.8人に対し、現代日本人は2人程度らしい(*1,*2)。比率が6:2だから、徳川農民と比べ、現代の我々はきょうだい3人分のリソースをたった1人で得ている事になるようだ。

老人切腹論のどこが論理的におかしいか

 というわけで、我々が美味しいものを食べ、高いおもちゃや本や服やCDを買って貰い、大学に行かせて貰えたのは、歴史的なスケールで見れば、きょうだいが前近代より少なかったおかげかもしれない。あなたが何人きょうだいなのか不明だが、2人きょうだいだとしよう。もし前近代の農村に生まれていたならば、あなたは5人や6人きょうだいの真ん中だったかもしれない。

 そうであれば、やっぱり「社会保障費の負担がきつい。責任取って老人は切腹しろ」論は不当なのではないか。
 我々は今まで、親や祖父母世代があまり子どもを産まなかったおかげで、良い暮らしを享受してきた。「親や祖父母世代がもっと子どもを産まなかったせいで、私の世代は苦しい」は間違いであるようだ。図式的に言えば、確かに豊かな先進国ほど少子化が進んでいる。子だくさんの国は発展途上だ。

親祖父母世代は、「無数のきょうだいを作らずあなたに豊かさを集中的に授けた」点で、すでに我々に少子化の恩恵を与えた後だ。増加する社会保障費は、いうなれば我々が使った親や祖父母名義のクレジットカード・リボ払いに対する請求と見做すこともできる。

ここまでの道筋を踏まえると、親や祖父母世代がもっと産んでいたら、1人頭の分け前が少なくなり、経済が発展せず、我々はもっともっと貧しく苦しくなっていたかもしれない。マルサスの時代ほどではないにしても。

特に高額な塾や学校に通い大学や大学院を出ている人で、きょうだいが5~6人未満だと、これまで述べた理屈がピッタリ当てはまる。高齢者世代に多少同情的になるのではなかろうか。

…と、ここまでデータ一切無しで話を進めてきた。これはあくまで理論上の話である、と逃げを打っておく。加えて、道義的な結論に留まり、だからといって現状が改善するわけではないのだが。

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