統計的差別の深層 - 容認される偏見と逆差別のジレンマ

 「統計的差別という概念は、矛盾している」という話をする。


1.「統計的差別」の概念的矛盾


 「統計的差別」の概念を、私なりにかみ砕いて説明しよう。ある人が、人種や性別といった集団の属性にかんして推測や憶測したものごと、つまり特徴や値や何となくのイメージを、特定個人や個人一般の特徴でもあると仮定(=帰属)して、この個人に対する何らかのアクションのために活用する事で「統計的差別」は生じるとされる(参考)。
例えば、雇用者が「女性はしばしば育児休暇を取るし、キャリアアップに熱心ではないから、この人は不採用にしよう」と扱うこと。大家や金融機関が「外国人はしばしば家賃やローン払わないから、この人には家やお金を貸さないでおこう」と扱うこと。こうした判断とアクションが、統計的差別の典型例だ。

 もともと経済学で使われる用語である「統計的差別」だが、今ではインターネット上で多様な状況に当てはめて使われている。最近で言うと、「男性被災者は被災地で性加害するな」というツイートは男性差別である、とされた。この批判は内容的に「統計的差別」への批判だ。確かに男性の性犯罪率は女性より高い。最近だと「知的障碍者は何するか分からないから女性としては怖い」という意見が炎上した。あるいは最近「特定民族は犯罪率が日本人平均より高い」と触れ回るジャーナリストもいる。

 統計的差別とそれに対する批判は混乱し、堂々巡りや混ぜっ返しの供給地となり、特にネット男女論の火種になっている。混乱を生む矛盾の内容を2つ挙げよう。

 まず第一の矛盾は、社会通念として容認され続けている統計的差別があること。
例えば「女性専用車両」は、女性という属性集団へのアファーマティブ・アクション(差別・格差是正措置)として導入された()。「痴漢などの性被害を減らすために統計的に性犯罪率が高い男性という属性を、女性から隔離しよう」との発想だ。明らかに統計的差別である。ところが女性専用車両が廃止される気配は、日本では全く無い。

また、保険に加入した事がある人ならば、自分が通院していたり過去に特定の病歴を持っているかどうかや年齢で、加入を拒否されたり、掛け金が上がるかの選別を体験した事があるだろう。これも立派に、統計的差別の定義に当てはまる(=特定の属性集団の特徴に基づき、個人への待遇を差別的に変えているため)。しかし「まあ統計的リスクが高いなら仕方ないね」と社会通念上容認されている。あなたは、もしかすると知的障害や精神疾患や発達障害も保険に入れない要因になりうる事を知らなかったかもしれない。でも、容認されている。

結論として、ある種の統計的差別は、社会通念として容認されている。社会に定着している。したがって、「統計的差別だから却下」と一言で言ってしまうと、どんな話題も単純化し過ぎてしまう。

 第二の矛盾として、社会通念として容認されているかとは別次元に、統計的差別を是正するアファーマティブ・アクションが広く行われている事実と、この事実から生じる問題に着目したい。アファーマティブ・アクションは、「多数派への不公平な扱いをする措置である」と批判されることがある。例えば「女性は構造的に差別されている」として、進学や就職で女性枠が作られるようになった。しかしこうしたアファーマティブ・アクションでは、構造的に女性差別をしているとされる男性集団の責任を、受かるか微妙なラインにいる弱い男性個人ほど一手に負う仕組みだ。

しかし、ちょっと待ってほしい。学力・面接力が怪しいことと、女性差別の責任の大きさには関係がないだろう。進学や就職における「女性差別」の内容がどういったものであれ、格差または差別を維持し作り出したことへの加担度合いは、男性1人1人違うはずだ。「構造的差別」の責任を、弱い男性個人に負わせるのは不公平だ。

 このような歪みの結果として、アファーマティブ・アクションは一言で「逆差別である」との批判を招くことになる。「逆差別」というのは統計的差別の一種だから、統計的差別への是正措置が別の統計的差別である事になり、堂々巡りになる。アファーマティブ・アクションを支持する人の中には、「統計的差別に対抗するためには、逆差別も必要」と公然と主張する人さえいる。これは議論が行き詰まる原因となる(参考)。つまりアファーマティブ・アクションもまた統計的差別であるが、一部擁護派はこれを"善き差別"であると容認するのだ。

「アファーマティブ・アクション」がしばしば「逆差別」と言われ、逆差別が定義的に「統計的差別」であると見做せる分かりやすい例は、下記の表だ。
下記は、アメリカ「アイビー・リーグ大学の入学審査における学力以外での基準によるSAT (大学進学適性試験)の修正点」である。白人の個人を0点とすると、各人種には次のようにボーナス加減点が入る。黒人の個人と白人の個人とで待遇差を設けている。つまり人種によって、個人の待遇に差を設けている。アジア系は白人よりさらに不利益を被る。しかしこれは"善い"統計的差別だとされる例だ。

逆差別 - Wikipedia


 以上2点を踏まえると、統計的差別はいつどんな場面でも絶対悪であるとは言えなくなる。それどころか、"善い"統計的差別(逆差別)もあると容認されている。他方で別集団からは、この"善い"統計的差別が批判されている。一言で、統計的差別という概念は矛盾と混乱に満ちている。

2.私の意見


 結論として「統計的差別」は、社会通念上の容認や、統計的差別是正のために、肯定される場合があり矛盾しているために、どの局面でも「統計的差別(逆差別)をやめます」と納得させるほど強いワードではない。

 では、統計的差別が明らかに間違っている場面、批判されるべき場面はあるのだろうか。私の考えでは、それは発言者が見積もった「特徴(曖昧なイメージを含む)」「統計値」が、もっともらしい根拠に照らしたときに「誤り」であるケースだ。例えば犯罪率がマジョリティ(何代も前から日本国籍持ちとか)より低い民族集団について、「あの属性はよく犯罪を起こすから怖い」と言いふらす事は、批判されて然るべきだ。まず、どういう正当な意図を叶える目的で、そうした発信をするのかに注目したい。誤った場合は、流した誤情報と自分の認知を訂正するべきことだと思う。関東大震災時の、「朝鮮人が井戸に毒」は最悪のケースといえる。
つまり保険で喩えると、(危険性などの)期待値の見積もりをあまりの注意不足で誤ったり、憎悪のため誤ったり、故意に偽るような事が、統計的差別の文脈では非難に値する振る舞いだ。

ただし不特定多数などに向けて発言せず、自分の印象(例えば過去に形成されたトラウマなど)に基づき、ひっそり特定属性の個人を避けるといった個人的で静かな振る舞いならば、看過するべきで批判が酷である場合はあるだろう。このテーマはもっと掘り下げる余地がある。

 したがって誤り情報・デマの訂正は確実に正しいと私は思うものの、それ以上に言える事は、実は限られているのではないか。

例えば、あなたは「女性専用車両は統計的差別だから廃止せよ」とか「進学や就職における女性枠は廃止せよ」と言いたくなるだろうか? そうした思想の人もいるだろうが、消極的あるいはマイルドあるいは強くジェンダー格差是正に賛同する人なら、いやそれはおかしい、と戸惑うことだろう。痴漢に遭いやすい、痴漢に抵抗するリスクを取れない弱い女性個人が、女性枠の撤廃により被害を負う仕組みになっている。これは先ほど述べた、女性枠の存在により「学力・面接力の弱い男性個人」にシワ寄せが行く事と、実は全く同型の問題だ。
(※なおアメリカの例では、2023年6月、アメリカの最高裁は「大学入学選抜時に人種や民族を考慮する「アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)」を違憲」とした(参考)。人種マイノリティの受験生は、この撤廃により「被害を負う」だろう)

 公平な解決策を考えるなら、女性専用車両を残しつつ、満員電車を改善するために車両(パイ自体)を増やしたり、痴漢の被害にあいやすい男性も安心して乗れるような車両の導入を考慮するべきだろう。要はまだ行き届いていない格差や不満も是正すること。

この方針で車両の件は、もしかすると上手くいくかもしれない。しかし進学や就職において弱い男性にシワ寄せがいかないよう、女性を増やしたぶん男性の採用数も増やす、という提案をするならば変な気がする。とはいえ代案という難題は、本記事の主題ではないから一旦ここまでとする。

 この記事の最後に提示したい重要な観点は、「統計的差別だから認められない」あるいは「善き統計的差別(逆差別/アファーマティブ・アクション)だから容認しろ」で終わらせようとする事が、場合によっては弱い個人に「黙って泣き寝入りしろ」と迫ることと等しい場合があるのだという観点だ。
もしかすると飽きられた概念かもしれないが「自己責任」「新自由主義」的な社会観や、弱肉強食を迫るものだ、と言って良いだろう。またそうして周縁に追いやられた個人の不公平を放置した場合、不公平への怒りや要求が社会にいつまでも残ることになるだろう。

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