共感について

「重たい皮膚病の知らない男性に話しかけられた。助けてほしいと言ってたけど、すがりつかれそうだったので逃げた。ふだんマイノリティの人権が大事だと言ってるのに、自己嫌悪に陥った」ということを話してる人がいて、正直な人だと思った。

実は私は、「共感はナンセンス」という意見はナンセンスだと思っている。そういう人は大抵、「自分が共感できないタイプの共感(典型的にはリベラルな感じの)が嫌い/共感できない(このためおそらく疎外感がある)」というだけで、真に感情的孤独を好んでいるわけではないからだ。

確かに、認知バイアスが問題だとかそういったマクロな話は重要だけど、今言いたいのは、そういうことではない。

より深く他人から共感されることや、他人に共感すること。またはより深い「自己理解」に達することが、人生の最重要目的の一つなのかもしれない、と思う。私は他人と比較するとそういう傾向が小さいとは思うが、その感じ方をある程度理解はできる。

ただ冒頭の例のように、共感は誰に対しても可能な関係ではない。冒頭のような重たい例でなくとも、「ああこの人は私のことを特に面白そうな人間とは思っていないな。まあそりゃそうか」と思うことがあるし、また「ああこの人って私と特に接点がないし全然興味持てないな」ということもある。

自分がしている「選別」や「排除」に意識を凝らし、自覚的になることはとても大切だと思う。容姿や見た目や知性や年齢といった「資源」は、典型的な選別や排除の理由だ。そこで「正しく」なろうとするまではしなくてもいいのではないか。共感はキレイな面だけではない。共感の「正しさ」には限界がある。共感が個人・グループに対する度を越えた敵意に繋がりながらそれを自己正当化する事もあると知っていれば、ひとまず十分かなと思う。

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