後悔しています。

詳細は省くが、江永泉さんとひと悶着あった。

約1年前、『反逆の神話』を読んで調子こいてたのは確かだ。でもそれだけではない。そもそも2020年頃まで私自身が明らかに反抗的な人間で、上司と衝突してはすぐ仕事を辞めていた。会社なんて搾取の道具でしかなく、上下関係は不当な抑圧でしかない。当然、威圧的に振る舞う上司は悪でしかない。だから納得いかないことに反抗して会社を辞めることは、社会のためになる善行でもある。このような認識でいた。30後半という自分の年齢を考えると、よくここまで(色んな方面への流れ矢を配慮したやわらかな表現で言えば)「未成熟」なまま生きてこれたと思う。この時期までなら、『ブルシット・ジョブ』やマルクス主義系の資本主義批判本の内容を、快く思ったことだろう。

『反逆の神話』を読んだのは、いつも仕事が続かないのは、自分の振る舞いのせいもあると反省を感じ出し、変わろうと思った頃だった。私の周囲には、発達障害や性的指向といった周縁的アイデンティティの探究や表明に熱心な人や、左翼活動家や、周縁的で、不安定な職に就く人たちがいた。かれらも私のように「自由」を好み、束縛を嫌い、社会への反抗的な気質を発揮しているようだった。これはどうやっても非難になるので最小限に留めるが、そうした人々の生活は、とても不安定に見えた。またときに自分のアイデンティティへの抑圧を自分の不幸の理由にすることは、より大きな自尊心を維持するためや、妥協し歩み寄らない「甘え」の正当化にも見えた。確かに会社や社会の作法にしたがって、自尊心や主張を引っ込めるのは楽しくない。ときに不当な抑圧もある。しかし多くの「普通の」人間も、色々込みで我慢しながら生きている。妥協して協調して働いて金を貰わないと生きていけない。また罪のない同僚への迷惑も生じうる。

こうした背景から、『闇の自己啓発』の宣伝や一部の内容には、昔の自分を否定する気持ちもあって強く批判していた。優越感ゲームもあったが、上記のようにそれだけではなかった。

生きていくために多少の我慢をすることや、ある程度の協調性は大事だと思っている。

だがそれにしても、私があれだけ嘲笑的な批判記事を書いたのは、どこまで正当化できるのかな、と今は疑問に思う。「協調が大事」という信条にも反している。闇自己周辺の方々に嫌われるとしたら、当然の報いだろう。

(大雑把に言って)アナキズム系の生き方は、ごく少数の人しか助からない。上手く行かないと信じている。とはいえ例えば樋口恭介さんには人として好ましく感じることが多く、自分でもどう接すればよいか中々難しい。話を広げると、カウンターカルチャーとキャンセルカルチャーだと前者のほうが思考に共感できる事が多いが、私は保守的なのだろうか。慎重に考えたい。

またなにより、私が論敵の方々に不愉快な態度を取ったことを、誰かが非難するのは正当である。恐らく、慎もうと思ってもこれからもそうした態度を取ることがあるだろう。そのとき、「自分は不愉快な事をした」という自覚はしたい。

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