文体は必要か?

文体とは何だろう。金曜の夜の自由な気持ちで書いてみる。

大まかに文体を、「その人に特有の文章表現のパターン」と定義する。しかしこの定義は殆ど役に立たない。私に文章のパターンを厳密に捉える力はないせいもあって。

代わりに文体を、機能や効果のいくつかの仮説から捉えてみよう。

その上で、文体は必要か?に答えを出す。

文体は思考の枠組みである。

ベンジャミン・ウォーフ的な発想で、文体があるタイプの思考を生む事はありそうだ。しかし英語で思考可能なことが日本語では思考不可能であるといった言語決定論でもあやしいのに、個々人の文体の違いが思考を限界づけるなんてことが、あり得るのだろうか。

そこで私は次の飾り説を推したい。

文体は飾りである。

文体は飾りであるという説。うまくハマった文体には、人を酔わせる効果がある。鳥の美しい羽根模様やさえずりと共通する点である。この点をみれば、文体は恋愛工学の道具箱に入れられるだろう。

けれど性愛における訴求力の他に、より一般的に興味深い想像もできる。

文体があればこそ、何らかのより高い洞察に達する事が出来るのかもしれない。これは先ほどの「文体は思考の枠組み」説と同様に見えるが、中身がかなり違う。

例えばあなたは、ある映画を観た。そして語りたくなった。そして批評を書いた。「面白かった」「かっこいいと思った」と感じたが、そうは書かなかった。なぜなら素朴で、ダサいからだ。こうした素朴さを見苦しいと思えばこそ、価値ある文章が生まれる事はあるだろう。つまり文体が思考の枠組みであると言えるにせよ、それは構文論的な性質から生じるわけではない。もっとソーシャルな、人間と人間との関係。優越したい。一目置かれたいといった、生々しい動機が表現の枠組みとして機能する。ひょっとしたら独創的な思考の枠組みとしても機能する。ある面で演技をしてしまう。これはありそうだ。あまり野卑なことを言いたくないので、ちょっと高尚なことを言ってしまう。欲望や快楽ではなく倫理を語ってしまう。

文体と競争

飾り説を角度を変えて、文体を競争というテーマから考えてみたい。

文体は諍いの素でもある。「この人とこの人は、ある面で同じような思想心情ではないのか。思いっきり具体的だけど、個人主義が好きだとか。なぜ争いを?」と思案する事がある。思いつく要因の一つが文体だ。文体の存在感が、「あいつは自分より目立っているので気に食わない」という気持ちを起こさせるだろう。凝った文体同士は、読者の関心というリソースを奪い合う。反対に、文体に仲間意識を感じた事による、連帯機能もありそうだ。

インターネットで、この文体で語りかけなければ、こんなに酷くならなかったんじゃないか、という諍いを結構見た。それは文体が促した特徴的思考がぶつかったという事もあるだろうし、文体の独創性を促したソーシャルな自意識が衝突している事もあるだろう。

文体とは『2001年宇宙の旅』の冒頭で、ヒトザルが手にした骨棍棒と同じだ。そのおかげで高所からの眺めを得ることができるかもしれないが、冷戦を生むかもしれない。

文体はテクノロジーだ。

鳥の羽は自然が与えた装備だが、文体にはテクノロジーの特徴もある。自分で改造できるのだ。この辺は作家や作家志望なら面白く語れそう。

ネタ切れ

特にオチはない。

文体は必要か?

とって付けたような問いだったなと、今見返して思う。答え。論じてきたメリットを見ると、必要でしょうね。文体が争いを生むリスクは自覚が必要だ。

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