国家はどういう場合に人権を守らなくなるのか?

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最近アナキストのB氏と話して、どうにも話が噛み合わないと思った。その理由は、官僚機構についての考え方の違いにあるように思われる。彼は官僚機構一般の存在が、悪しき国家主義や全体主義に加担すると考えているようだった。

私の認識はその反対だ。司法など特定の官僚機構の独立性が弱く、政治に従属する国のほうが、そうでない国よりも反体制派の権利が守られにくいと思われる。世界には反体制ジャーナリストが殺害されたり、政権批判者が弾圧される国がある。殺害される国では、指導者の政治的利害がダイレクトに「官僚機構」に反映される傾向がある。

ベネズエラでは、権力均衡が骨抜きにされている。例えば政権の意に添わぬ判決を下した裁判官をいきなり何年も刑務所にぶち込むといった間引きをして、国のすべての領域が、「政治権力者にとって敵か味方か」で決まる政治的領域へと変えられていった。

国家の全領域の政治化への歯止めの一つが、「法の支配」の理念なのだが、「法の支配」を「貴族やブルジョアジーの権益擁護に過ぎない」とか、「司法官僚が自らの権益を擁護するだけの思想」と捉え軽視すると、かえって反体制派への弾圧や、国家の私物化を招くことになる。

むしろ政治権力者が「労働者のため」といったそれっぽい階級闘争的理念を掲げ、官僚機構を攻撃し、変質させる時、暗い未来を予想した方が良いだろう。なおベネズエラは近年、「法の支配」が最下位かそのレベルであると評価されている(https://globalnewsview.org/archives/11379)。余談だがソ連のように、階級闘争史観は「敵か味方か思考(部族思考)」への自己批判を弱め、自由の抑圧を招きやすいと思われる(労働者の味方だから、敵になにをやってもよいと)。だから私は「共産主義が最も進んだ体制である」といった歴史観を特に信じていない。

これは別領域、福祉の問題でもいえる。例えば国家からの加害をおそれるあまり、政治家が国民皆保険を廃止する動きに同調するなら、経済的弱者の自滅を招くと思われる。確かにそれは、福祉国家と官僚機構の一部を縮小させる点で、反国家的なのだが…。

「官僚機構全体」や「国家全体」を敵視するのは解像度が粗い。どうせ国家はなくならない。「国家による不当な加害のリスクを0にするには、国家を廃止するしかない」という主張は、ほとんど論理的に正しい。しかし現実に国家がなくならない以上、国家がある前提での「賢慮」が必要と思われる。

「国家」のうちどの面に期待し、どの面を特に警戒するのか考えた方がよさそうだ。余談2だが、私は先の選挙で立憲民主党と共産党に投票したので、どちらかといえば「弾圧」を受ける可能性がある側である。

冒頭の写真:「殺害」されたロシア人記者は生きていた 「暗殺阻止のため」おとり捜査 https://www.bbc.com/japanese/44311438

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