三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』ようやく読めた。

 「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」。

 本書の答えを乱暴にまとめれば、新自由主義に内面を侵され、コスパ意識きわまったためだ、という事になる。このせいで、現代日本の会社員は仕事以外の文脈、自分から遠く離れた文脈(p.234)を含むもの、すなわち「ノイズ」を多く含む読書をしなくなった。

代わりにコントロール可能な自分の行動にターゲットを限定した自己啓発書と、「今」ここの知識でのみ勝負し、自分の外部にある文脈や社会を「ノイズ」として排除する、ひろゆき的論破で済ますようになったという(p.204)。現実の複雑さ、自分にとって未知なるもの、言い換えれば「ノイズ」を体験できる事こそ、読書の真価であるのに……という論調だ。

 「本」とは、自己啓発書等ではなく、主に小説を指すようだ。冒頭で『ゴールデンカムイ』も挙がるので、漫画も、労働すると読まなくなる書物に含めてよいだろう。『花束みたいな恋をした』という小説の登場人物で、労働し始めてから『ゴールデンカムイ』が7巻で止まった人が冒頭引用される。
以後、本書の想定する読書を、「読書」と呼ぼう。

 本書によると、「読書」の代わりに、現代人はコスパが良いひろゆき的論破か、自己啓発書の読書か、パズドラを好む。

「人文系の教授の言うことは聞けなくても、ひろゆきの言うことを聞くことのできる人はたくさんいるのだ」(p.200)。

「社会は、変えられない。たとえば政治や戦争の悪いニュースは自分の手ではどうにもできず、搾取してこようとする他者はいなくならず、あるいは劣悪な労働環境を変えることもできない。」「自己啓発書の特徴は、自己のコントローラブルな行動の変革を促すことにある。つまり他人や社会といったアンコントローラブルなものは捨て置き、自分の行動というコントラーラブルなものの変革に注力することによって、自分の人生を変革する。」(p.180)

「本当かもしれない」それなりに面白い論述だった。

…だったのだが、幾つか納得できない。

 まず本書の外在的・歴史的なアプローチ。これは、各時代の労働者の心のあり方(ニーズ)と呼応するものとして、「読書」の役割変化を跡付けている。このアプローチは「読書」の価値を、会社員のニーズの単なる相関物に過ぎないものであるかの如く描写してしまう。このような限界がある。
「新自由主義のせいで、『読書』をしなくなった」のではなく、新自由主義の流行で揺らぐほど、「読書」とは軽い行為であるものと、このアプローチではあらかじめ定義づけられてしまう。

例えば、本書に次のような主張がある。「教養」本が尊ばれたのは、ノン・エリートとの差異化ゲームのため。『痴人の愛』が売れたのは、「サラリーマン」のスケベ心に訴えたから。円本が売れたのは、来客に顕示する差異化ゲームとして、等々。

「読書」の価値は、こうした時代時代における会社員の心のトレンドに応じて揺らぐ軽いもの、トレンドの従属変数なのだと印象を抱かざるを得ない。「『読書』は素晴らしいものだけど、外在的な邪魔があるのでその魅力を発揮できていない」と伝える事が、恐らく著者の大きなモチベーションだと思うのだが。「長時間労働や新自由主義ごときで廃れてしまう、あまり魅力のない文化」という印象を持ってしまった。

 ある会社員が、『ゴールデンカムイ』を読まなくなったとして、ではその原因は何かと問うた時、本書のアプローチからは、「その会社員は新自由主義を内面化したため、日露戦争やアイヌといった、現実の複雑さすなわち『ノイズ』込みの作品は、コスパが悪いからだ」と答える事ができる。果たして、この答えは十分な説明になっているだろうか。

また、ヒット小説は図書館で半年や一年後まで予約が入っている。ヒット漫画は1冊数百万部売れるレベルを維持している。会社員でも、本当に好きな漫画は追い続ける人が多数派である気がする。

要は、「サブカル的『目配せ』が忙しくなったら出来なくなりました」という程度の嘆きに応える(に留まる)アプローチにも見える。生活習慣から消えるのはやむを得ないのでは。関心・切実さの優先順位が高くない習慣が消える事の分析が、本書の実態であり、その点が明確でなかったように思う。(※【追記】に続く)

確かに「コスパ」重視の時代性だとか、労働時間の長さ(近年減少してるけど)は、読書習慣を減らしそうだ。

しかしそれとは別に、あるタイプの本に価値を感じられなくなった自分の心境変化で、時代の労働者マインドの傾向と関係が薄い部分。恐らくはライフステージ変化や人生経験の蓄積といった、主観的な部分が原因であること。これは、私が悩んでいる事だ。これを主題とした本ではないので、物足りない面があった。(この点は本書の責任ではない)

【追記】
 最も切実なテーマや、最も『好き』でない優先順位のもの。労働が続けば削減対象となる程度の、中途半端な『切実さ』『好き』の対象。こうしたものと、関わり続ける余裕がある、「半身」コミットメント社会が良い。
……もしこのような私の拡張解釈が許されるなら、外在的アプローチも欠点ではなくなり、悪くないと思った。

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