ネットの配信文化が承認をめぐる競争を悪化させる危険について

もくじ
1.Vtuberは脱資本主義なのか
2.認知をめぐる競争
3.足るを知ること

1.Vtuberは脱資本主義なのか

twitterではてなのあままこさんに突っ込んで、ちょっと田原総一朗みたいな感じになってしまった。私が言及したのは「「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある」というタイトル記事の一部内容についてなので、詳しくはリンク先を読んで欲しい。あままこさんは記事でVtuber文化の持つ解放性を、こう述べている。
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僕は最近VTuberという存在にはまっているのですが、VTuberの多くは、自らを「社会不適合者」と自嘲し、「VTuberにならなきゃただのダメ人間」と言ったりします。実際、遅刻常習犯だったり、コンプラ無視の配信を繰り広げる彼・彼女らは、現実社会ではまともに生きていけないでしょう。
ですが、そんな彼・彼女だからこそ、その配信は無茶苦茶面白いわけです。少なくとも、どっかの動画サイトで偉そうな経営者の人生訓を聞くよりずっと。
ここでは、「インターネット」を現実社会と切り離した場として活用することにより、「現実社会でダメ人間でもインターネットで輝ければいいじゃん」と思えているわけです。

(「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある
 https://amamako.hateblo.jp/entry/2022/04/11/004244
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まずこれに突っ込みを入れる。Vtuberの上位20人は、全員「事務所・企業に属する」または「既に大手Vtuberからの派生」Vtuberだという調査がある。Vtuberは「社会不適合者」であることを上回る実力があれば食っていけるだろう。しかしただの社会不適合者の赤字人材ならば、企業は採用しないか、リリースするのではないだろうか。Vtuberには貨幣経済と違うユートピアな生き方があるわけではない。求められる人材のキャラクターがお堅い職業や業界とは違うという、職業・産業の違いにすぎないのではないだろうか。

批評家トマス・フランクが、「クリエイティブ」であることを尊ぶ産業を「クール資本主義」と呼んだように、確かにそれは比較的新しい動きだ。でもクール資本主義であることは、競争が過酷でないことを意味しない。

ある意味、「こんな社会不適合な自分でも生きていいんだって勇気を与えたい」と「養分」を誘う起業家や、インフルエンサーの抱える欺瞞と同じものがある。社会不適合者だから生きていけるのではなく、それを補うクリエイティビィティがあるから、社会不適合者でも生きていける。この違いは大きい。メリトクラシー(能力主義)の価値観で動いているのは、クリエイティブ産業も他の「資本主義」産業と同じなのだ。

・・・しかし話をしていると、どうも「プロのVtuberになって食っていけ」という主張はしていないという(※私の認識では、そうした解釈を許す文章になっていると思うのだが)。ここからが本題だ。

2.認知をめぐる競争
あままこさんによると、君もVtuber文化にハマれと仄めかしたのは、配信者として「多くの人を集めること」が目的だからではない。「現実と違って、大勢の人に認められなくてもごく少数に読んでもらうことが出来るのが、まさにインターネットの利点」*であり、「実社会ですり減らされるぐらいならそういう世界に没入すればいいんじゃないって話」*であり、「現実の貨幣経済とは別の基準で、居場所を確保する方法もある」*という話だという。その例としてVtuberやにゃるらを挙げてみたのだという。現実の貨幣経済は自己責任論を押し付けてきて酷だというが、関心を変えてみよう。そうすればコンテンツのサイバーユートピアが広がっている。…という事になる。

ひとまず承認の問題を全く考えないとすれば、「良き『視聴者=消費者』として幸福になれ」という主張が含まれていると言える。サブカルや人文知には多様なコンテンツがある。それらにハマれば生きやすくなる。…という話になる。これは一見別物だが、市場に解決を任せる点で、懐かしの「牛丼は福祉」と似た思想だ。あるいは東浩紀「動物化」論の延長にある話だ。確かに市場は、多くの商品やサービスを供給してくれる。快楽を供給してくれる。でもそれだけだ。福祉や実存の問題は、必ずしも市場の商品とサービスですべて解決することができないだろう。

やや脱線するがちょっと疑問に思ったこと。『月曜日のたわわ』炎上のように、どちらかというと「人文知」(の中のフェミニズム)は、コンテンツ市場の自由に対する抑圧に結びついている。そのようにファンから敵愾心を持たれることが、最近多い。それを右やアンチリベラルな人が援護射撃する構図もある。こうした懸念と軋轢を検討しなくて良いのか。人文知は、「かわいそうランキング」(ケアの優先順位)で劣位の人々を救う力になっているのか。そうしたケア劣位の人々をある程度救っているのが、フェミニズム的には「正しくない」コンテンツの供給ではないのだろうか。しかし私がいま関心の強いテーマではないし、言及されている白饅頭有料noteは読んでないのでスルーする。

もう一つのテーマは、配信文化と承認の関係だ。あままこさんは、「仕事の場面で「承認」を得るためには、結局貨幣を稼ぐ方法を見いださなきゃならない」。「そして、貨幣を稼ぐとは、誰かから貨幣を奪うことなわけで、それがいくら楽だろうが、魂を汚す行為にしか思えない」という*。この「奪う」という認識がおかしいとは思うが、とりあえずは受け入れる。すると、先述したようにVtuberもガッチガチの資本主義だ。定義からしてVtuberが企業ビジネスである限り、「誰かから貨幣を奪う」活動であるということに変わりはない。そりゃ、視聴者・お客さんには過酷な面を見せないだろうが。小ぎれいなファストファッションが、遠くの途上国の労働現場では児童などの労働者を搾取していると批判されるのと同じだ。

より普遍的な問題は、素人がやっても配信という行為は他人の「認知を奪ってしまう」ことだ。文章を書いて発信する、絵を描いて発信する、感想や雑談をキャスやスペースで語る。確かにウェブサービスが発達したことで、素人でも発信はしやすくなった。確かに認知され、気遣われ共感されることは気持ちが良い。明らかに幸せの中核にある。小学生がYoutuberになりたがるのも理解できる。

しかし発信の場では、「誰の顔を好むか」「誰の絵を好むか」「誰の声を好むか」「誰の文章を好むか」という認知の競合・競争も生じる。誰かが配信で好意(=ケア)を集めると、そのぶん他の誰かは無関心にされる。これは穿った見方だろうか。

私には客観的な引き算の問題であるように思われる。誰かのキャス(音声配信)を聴いている時、他のひとのキャスを聴くことはできない。ある映画鑑賞に2時間使えば、別のレクリエーションは2時間行えなくなる。

あままこ記事で不可解なのは、こうした「認知シェアの奪い合い」の問題の存在自体には彼が気付いていることだ。

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あるいは「地方おこし」。一見「自分たちが生きる地方に観光客や移住者を募る」ということは、立派な社会貢献に思えますが、しかし当然の帰結として、ある地方が地方おこしに成功して移住者や観光客が多くなれば、その分他の地方に向かう移住者や観光客は減るわけで、結局同じパイを奪い合って自分たちに利益誘導しているだけなわけです。
https://amamako.hateblo.jp/entry/2022/04/11/004244
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上記引用部の「地方」を「配信者」に置き変えれば、まったく同様の認知の競合が起こることは、明白だ。ネットの草の根配信文化の過熱は、「認知シェアの奪い合い」を悪化させてしまうだろう。
彼の反論は、「貨幣経済」で動く地域おこしでは競争・競合が発生するが、余暇の配信行為は競争・競合が発生しないというものだ。これとあれとは別次元だからだということ。不合理な区別だと私には思われる。

あままこさんは、「ところが、バブルが生まれ、そしてはじける中で、日本経済全体が均衡・縮小していくと、「新しく富を生み出す」のではなく「他人の富を奪う」ゼロサムゲームこそが、仕事の大部分を占めるようになるわけですね。」*と述べている。
私は、まさに配信文化が浸透していくと、「他人の認知を奪う」ゼロサムゲームが悪化すると考える。そのことに誰もが自覚的ではないのかもしれない。しかし先ほどの引き算の形で、確実に起きている。
認知で優位に立つための軍拡も生じる。例えば写真映えのために整形する人は珍しくないが、「軍拡」の一種と言える。

「他人の認知を奪う」ゼロサムゲームの問題は、文化的リベラルで流行りの「ケア」論が、必ずしも市場原理や競争の過酷さを解消してくれないことも暗示する。元々、「誰を好きになるか」「誰とより多くの時間を過ごしたいか」といったことは、市場での選好によく似ている。プライベートでは失恋。産業ではアイドルや芸能人を考えればよい。選ばれない人は「淘汰」される過酷なものだ。

だから「自己責任」「貨幣経済」がもたらす過酷さに対するアンチテーゼとして、Vtuberのような「好かれる才能と好かれない才能に大きな格差がある」文化は、必ずしも救いにはならないのではないだろうか。たとえ消費者に徹することや、アマチュア配信者に徹することのみを推奨しても。

マネタイズしにくいが、人から好意を得られる分野はあるのだろう。そうした分野での配信活動をはじめれば、「能力」ある人は救われるかもしれない。これを見た観察者は、資本主義を超えたユートピアをそこに幻視するかもしれない。しかしこうした分野でも能力や魅力資源が無い人は、救われない。

ウェブで見たエピソードを思い出した。マイノリティの人権を学んでいた学生が、道端で顔に病気らしき奇形のある男性に、「助けてください」とすがりつかれた。とっさに拒否反応が出て嘘をついて、その場を離れてしまったという悔恨の話。ケア(関心)は差別的・選別的にも働くのではないか。だから機械的に無差別に恩恵をもたらす制度(福祉)が、ケアの歪みを補正する必要がある。まあこれはちょっと違う話になる。

3.足るを知ること
あままこさんが言うには、配信文化を推奨したのは「多くの人を集めること」を目的にせよということではない。「現実と違って、大勢の人に認められなくてもごく少数に読んでもらうことが出来るのが、まさにインターネットの利点」*とも述べている。

確かに認知の競合・競争が起こるからと言っても、ごく少数の人から好かれるのは、多くの人にはそう難しくないかもしれない。だから配信文化との適切な接し方を知ること、承認欲求の「足るを知る」徳が、重要になると思われる。『チェンソーマン』のデンジ君みたいに、「俺は俺の事を好きな人が好きだ」という心を持てればベターなのだろう。一人の重要なファンを大切に、足るを知って生きることが。

しかし私の観察範囲では、視聴者数が「このくらいでいいや」という人はおらず「もっと配信を見て欲しい/聴いてほしい」という人が多いように見える。これは、お金を1万円もっていればもういらないと思わないことに似ている。小金を持つと、もっともっと欲しくなる。

マンガ『ゴールデンカムイ』は、金塊をめぐって人間たちが暴力を行使し合う話だ。この漫画のユニークな点は、金塊(砂金)が侵入してくる以前のユートピアとしてのアイヌ共同体を描いているところだ。「平和な共同体が貨幣経済の侵入によりおかしくなる」という、反資本主義的リベラルが好む物語類型が根底にある。土方も、鶴見中尉も、大きな野望を叶えるために金を欲しがり、金を巡る競争が殺し合いを生む。このように人の心を挑発する金に、自然と調和して生きる定常的なアイヌ共同体の伝統が対置されている。金塊は彼らに、今とは別の「何者か」になれるという夢を見させてくれた。だが金という資源は、それを手に入れるための競争を生む。

……しかしこのような世界観を貨幣経済の寓話として好むリベラルな人でも、「貨幣経済」ではなく「認知経済」の話になると、認知シェアをめぐる競合・競争が起こることに鈍感になる。なぜなのだろう。

一つには、「貨幣経済」では貧乏でも、認知経済では強者の人がそういう資本主義批判記事を書く偏りが原因だ。

執筆者に発信者として耳目を集める高い能力があっても、自分が認知の競争で比較的恵まれていることを、あまり自覚できていない。あるいは隠した方が有利になる、という打算もあるのかもしれない。「貨幣経済」の弱肉強食や競争を批判すると、「いい人」「やさしい人」と思われる。だが自分が認知経済で強者であることを認知されるのは損になる。そうした競争があると知られるのは不都合だ。

そしてこうした認知・ケアの偏り・不平等は、「弱者男性論」やアンチリベラル界隈の根底にある問題意識とも共通している。言い換えると、より深刻な問題は、「画一的な社会に適合せよとの抑圧」ではない。それは問題の一つにすぎない。次に来る、「余暇の時間に適合圧力から解き放れたとき、自分には他人から強く好かれる『個性』があるのだろうか」という不安なのだ。
人によっては、「より個性的にならねば」「余暇に個性的な自分になれるような『人的資本』投資を」という強迫観念に囚われ、メンタルヘルスや人生設計を悪化させていくかもしれない。
いずれにしても、「1フォロワー」や「1PV」ではない、人間とのほどよい関わり方を磨いていきたいものだ。


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