SNSと言葉

インターネットはひとの本音が見えるからよいと、2ちゃんねるの頃から思ってた。アングラと本音は重なっていた。私は、言葉で自分の心なり現実なりの本質を、透明に写し取れたら、という風に思ってきた。SNSは格好の練習台でもあった。

でもある時期からちょっと社会性が身についてきて、考え方が変わってきたかもしれない。

むき出しの本音のようなものを叫ぶ人間には、やばいやつが多い。あるいは不愉快で、関わらない方が良さそうな場合も多い。もちろん私がその一人と見られることもあるだろう。

それが本当に本音なのか、本音のようなものなのはかあまり重要ではない。どちらにしろ、無配慮な言葉は相手を怒らせ、不快にし、不安にする。だから人格のできた人は、言葉が及ぼす影響を考え、武器のような言葉の使い方はしない。言葉のリスクを考慮しない人はどこかおかしい。

うーん、まあでも、それって対面社会と同じだ。それは対面社会の面白くなさでもある。

他人に配慮した言葉とはまた別のものに、着飾った言葉がある。例えば、ひとの心を動かす効果を狙った大袈裟な感想。視覚的に言えば、透明でもなければ、刺激の弱い色でもなく、多種多様な模様といったところか。

大きな反響を生める技能は大したものだ。しかしそればかりが視界に入ると、自分はここに何を求めていたのか分からなくなる。万華鏡のようだ。

要するに、SNSに飽きてきたのだろうか。単なる本音とはまた別の透明性、それがあるような気もしている。

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