報われる世界で生きたいよね、それはそう。

 // チラシの裏
 がんばって働くともっとお金が貰える。経験が増すほど見通しが良くなり、詰められても平気になる。上に立つほどお客さんの矢面にも立たされる。しかし知識が増すと、詰められても心理的に折り合いがつく。自分は悪くないと自信が増す。不安にならない。まわりから評価される。下から慕われる。上に立つ。パワーがある。不倫もしやすく……いやこの話はやめておこう。労働人生が安心。知は力なり。
このため多くの働く人にとって、能力主義者であることはデフォルト状態だ。

 私が性格的に尊敬する人もまた、能力主義者だ。仕事でだれにでもフレンドリーに、さわやかに接してくれる。
理屈は分かる。上記の通り。素敵な性格とも表立って矛盾しない。大体、サボるやつは性格もそれほど良くない。

 努力し、会社の目的を実現する「手段」実現能力を高めていくと、さっき言ったように、会社員自身の労働生活も楽になる。

 別の考え方もある。この考え方では、「その努力は企業や資本家に搾取されている」とか、「ハードワークよりもっと別の価値ある事がある」と、能力主義(=生産性向上へのとりつかれ)が批判される。
1日工業製品1000個が、労働者が努力して1200個作れるようになったとして。だから何? 最近読んだシモーヌ・ヴェイユ『工場日記』が頭に浮かぶ。 別に、『共産党宣言』でもなんでもいい。
 手段の価値は、目的の価値に依存する。たとえ麻薬生産者が麻薬の生産能力を1から10に高めたとしても、患者を増やし、麻薬王を肥えさせるという目的が終わってるから価値がない。さっき述べた、まわりに評価される効用にも社会的意義がない。

 「工業製品やふつうの合法サービスは麻薬と違うのでは?」と思うかもしれない。そうだとしても、「あいつは使える」「使えない」と人を叱責したり、辞めさせるべきだとする能力主義の気分には、麻薬生産と似た非道徳的な面を見出せる。

 でも、工業製品やふつうの合法サービスは、資本主義や能力主義に批判的なあなたも便利に使っているわけだし、その生産手段である人間を加速する哲学である能力主義は、全面的な悪とは言えないでしょう。電車が1時間止まったらイライラするあなたも、「使える」「使えない」思考から恩恵を受けている。

そういうわけで、この議論は50:50で平行線となる。

 私の葛藤は、経済活動の「目的ー手段」連関をメタに見る、醒めた意識をもってしまうことにある。言い換えれば『工場日記』や『共産党宣言』を、マジに受け止める人と、興味すらない人がいるという話だ。教養があるかないか。あえて煽っていくスタイル。
醒めた意識のことを、生産の向上と効率化に関わる知性(悟性)を超える思考能力という意味で、簡単に「理性」と呼びたくなる。「理性」がある人かどうか。「『理性』をそういうものと定義し独占するのは左翼的だ」と揶揄されそうだ。そもそも社会主義国も、国をあげて生産性にとりつかれていたしね。しかし今は簡単にそう呼ぶ。

労働より価値ある活動や価値、例えば趣味や信仰があると前提するか否か。まあ左派ツイッターや紀伊國屋じんぶん大賞のマジョリティならば、労働を呪い、「理性」を讃えれば擁護して貰えるよ。それはそう。そこからあがると苦痛になるお風呂みたいなものだけどね。

その人間関係のネットワーク内でしか真に生きず、他にケツを向けると決め込んだならば、それでいいだろう。私はといえば、そっち側にズブズブにはなりたくない。ここ3年ほどはそんな気分だ。なりたくないが、跳ね返される。「理性」の無い、目的ー手段の輪が閉じられたように見える世界に、素敵な人がいるのを知っている。素敵でなくても、全面的なワルではない人たち。
あの人たちにも、私が共感可能な「輪の外」があるのだろうか。それが存在してくれないと、それを掴めないと、あっち側でも真に生きられない。心が跳ね返されてしまう。

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