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にんげんのきおくのはなし。

つい最近、はじめて記事の執筆の依頼を受けた。

とはいっても僕が入っているSELFという学生団体のことについて書くもので、団体のSNSに依頼がきて、それを僕が書くことになったまでだ。

3400字。簡単だと思ってたけど、正直何を書けば良いのか、何から書けば良いのかわからない。

僕はどんな気持ちで何をやってたんだろう。

最後にメンバーに会ったのは8月。留学前に3年生で集まってごはんを食べて、ゲームをした。大学で友達の少ない僕が、唯一心地良く過ごせる人たち。会わなくなって、話をしなくなって3ヶ月しか経ってないのに、どんな風に何を話してたのか思い出せない。

1年生の頃から、ずっとこの活動のことを考えてやってきた。イベントも勉強会もたくさんしてきた。心を許せる友達もたくさんいた。なのになんで。

人間の記憶力というのはみんな同じなのだろうか。小学生のとき、中学、高校生だった頃の話を友達とする時、周りの友達はかなり具体的に、昨日あったことのようにエピソードを話してくれるのに、正直僕はあまり思い出せない。

SELFでどんな風に、どんな距離感で、どんな気持ちで活動していたのか、なぜか思い出せない。こわい。日本に戻ったとき、みんなとまた同じように仲良くできるのだろうか。

僕は日本にいた頃、本当に気持ちが落ちてしまった時に、ゼミの先生に話を聞いてもらったことがある。

今は自分の研究が楽しくて、SELFやSOGI研の活動が楽しくて毎日過ごせている。でもいつか就職して、研究のことも、SELFやSOGI研のこともどんどん忘れてしまって、社会の波に飲まれて、違和感にも気づけなくなって、今やっていることがなんの意味もなくなってしまうのではないか。

僕は衝動的に現在をひたすら生きてしまうところがあって、過去を記憶する脳の機能がうまく作用していないのかな。

僕は中学から高校に上がるとき、また高校から大学に入ってからで、全く違う人間になったといえるほどに変わったと思う。それは自分が影響されやすい人間だからというのもあるし、環境の変化が大きかったからというのもある。それぞれの時期の辛い経験を脳が必死に消そうとした結果なのかもしれない。

どんなに素敵な出会いや経験をしても、すぐに忘れてしまうのに、必死に今を生きることになんの意味があるんだろう。誰かと生涯を添い遂げる未来のない人間にとって、人生を共に付き添うのは自らの思い出だけだ。それさえも不確実なものだとすれば、僕はいったい何のために生きているのだろうか。

こんなことが書きたくてnoteを書き始めたのでは無い。

思い出せるものとして鮮明に残らなくても、中学、高校での出会いや経験が今の僕の人間形成に作用しているのは紛れもない事実であって、きっと大学での研究や活動も、直接的に活用されなくとも、何かしらの形で僕の考え方や視点として残る。ずっと影響し続ける。

そう信じてやっていかないと。

あの時は先生に答えを求めたけど、誰かが常に正しい答えをもっている訳ではなくて、先生の言葉やその後の経験から、ふとした瞬間に自分自身で答えを見つけることもある。その答えは唯一無二のものではなく、人生を歩んでいく中で状況に応じて、また新しい答えを見つけていくんだと思う。

これを書きたかったのに、書きながらまたわからなくなって不安になって、毎日生と死を、希望と絶望の間をさまよっている。

僕は生きていたくないと考えることが悪いことだとは思わない。常に生きること、生きようとすることを絶対善とする考え方には否定的だ。

この前物理学の教授のお家に遊びに行った際、教授が最近の若者が聞く音楽を知らないという話になって、ひとりの学生が「100歳の人と話してるみたい。」と言った。教授は「君たちよりは100歳に近いだろうね。」と言った。

果たして本当にそうなのだろうか。僕はみんなが笑う中ひとり疑問に思った。

僕は明日死ぬかもしれない。事故にあって、誰かに刺されて、あるいは自分で死を選んで。教授が100歳まであと数十年生きて、僕が明日死んだら、僕と教授では今、どちらが100歳に近いだろうか。

誰だって死との距離は同じだ。

「生まれ変わったらなにになりたい?」という問いが空想的で、「老後はどんな暮らしがしたい?」という問いが現実的だと考えられるのはなぜか。自らの老後の暮らしを現実的に想像できるのは幸福なことだと思う。僕は自らの死後の話より老後の話の方がよっぽど空想的に感じる。

これは空想的な話に価値を見出さない友人と話した時にふと考えたことである。僕はときどき「生まれ変わったらなにになりたい?」という質問を友達にするんだけど、その子には初めて、「なんでそんなこと考えるの?」と聞かれた。

その時は想像していなかった返しがきたので、僕は少し考えたあと、「自分の今の生活に満足していないからかもしれない。」「それはなぜ?」「僕は生きていく上で社会のバリアがたくさんあって、それが苦しい。」

「生まれ変わった時何になりたいのかという問いには、今の人生で自分がなにを欲しているのか、なにを大事にしているのかが現れると思う。」とも答えた。

話している途中にも涙がでそうになり、声が震えたが、なぜこれを聞くのか自分に尋ねる良い機会になったし、逆に今の自分の人生を見つめ直すきっかけにもなった。

スウェーデンにいると、なんでも同調する人ばかりではなく、疑問に思ったことをそのまま伝えてくれる子もいて、とてもおもしろい。

でもいつかここでの記憶も薄れていってしまうのだろう。つい1ヶ月ほど前のフィンランド旅行のことも、あの時は大きな衝撃を受けてずっと心を輝かせていたのに、いまは誰かに語れるほど覚えているわけではない。帰国後きっと話を振られるだろうから、ちゃんと日記に残しておかないと。

そんなこんなで最近考えていることをぎゅっとつめこんだnoteになってしまった。僕はまだ元気だから、心配しないで。

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