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【Mongolia】あるもんで生きるをくれた国|vol.3|torito旅しんぶん

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 草原を自分の足で歩き、見知らぬゲルの戸を叩き、そこに生きるひとたちと、出会い過ごしめぐったモンゴルふたり旅。「あるもんで生きる」を体現する遊牧民の人々と過ごした1ヶ月は、いまの暮らしを選ぶ契機となった。

 旅の隙間、ぽちぽちとiPhoneに綴っていた日記。その中にいるわたしは、とても素直でたくましい。ちゃんと悩み、向き合い、答えを生きようと必死になっている。モンゴルの景色と紡いだ純粋な言葉たちが「おまえは、どう生きる?」といまのわたしに問いかける。あれから5年、今日もあのゲルに、煙は登っているだろうか。明日もあの草原を、彼らは駆けているだろうか。変わり続ける地球の上で、大切なことを、変わらず大切にできているだろうか。

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 空気が足りなくて、テントを開ける。上空は晴れ、風はまだある。薄っすら残る雲が月を時折隠しつつも、まばゆい光が草原を照らしていた。眩しい、とはじめて月におもった。シンと冷たい空気の中で、周りをぐるり見渡す。広大な大地において、存在する生き物は、私と彼しかいないような気がする。寂しさが増す。自然の中で生きていく、ということは、この極限の心細さと向き合っていくことなのだろう。だからこそ、ひとはゲルに住まうのか。ぐるり家族が輪になって過ごせるあの家は、大自然の孤独から守ってくれる、唯一無二のあたたかなシェルターなのだ。

 

 抜けていく景色が嘘みたいに美しい。まるで映画のワンシーン、そんなありきたりな言葉じゃ到底足りない。雲がぽんぽんぽんと均等に空に浮かび、羊の群れのよう。歩いているときはあんなに苦しかった強風も、バイクの後ろで浴びれば、馬で駆けるような爽快さ。モンゴルはなんて美しい国だろう。厳しさと美しさがものすごいコントラストで目の前に現れる。モンゴルの人々はずっと、何千年も変わらぬ、この美しさの中で生きてきたのだ。

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 旅の3分の1が過ぎ、少し疲れた。暮らしのちぐはぐ。言語や生活習慣、大きなバックパックと旅の予算、もろもろあるけれど、なにより、お肉が食べられない。その一点が、ただただしんどい。ここでは主食だから、と言い聞かせても、匂いも食感もなかなかすんなり受け入れられない。肉食への疑問が真正面から迫ってくる。味というよりはむしろこっち。肉を食べて生きるということが、わたしのいのちと羊のいのちを天秤にかけるような気がしてしまう。

 ちいさなよだかは、泣いていた。甲虫や羽虫を毎晩殺す自分の毎日を嘆いていた。旅のお供は宮沢賢治。彼は「人間はなぜ生き物の生命で身を養わなければならぬのか。他を侵さず生きて行くことはできないのか」と考え菜食を選んだ。とはいえ、菜食でさえ多くの殺生があるのだ。ラマ教が農業を嫌うのは、土を起こすと底に眠る虫たちが死んでしまうからだという。殺生の大小に差はないだろう。そうおもえば、野菜を食べるわたしの体は既に生命の上に成り立っていて、あえて肉食を避ける理由もないのだ。論理的には理解できる、けれど感覚が追いつかない。肉塊を見るたびに、ナラントールザハの肉売り場の光景が脳裏によぎるのだ。屠殺され、毛皮を剥がされ、吊るされた羊は、もうお肉?いのちと食べもの、その境目は?ハッとするほどに残酷な光景も、ところ変わればご馳走なのだ。わたしはこんなに食べてきたのに、その何もかもを知らなかった。だからなのか、大草原にたゆたう羊たちの群れを前に、今のわたしはまだ「いただきます」と言い切れずにいる。

  砂漠に苗を植え、種を蒔くということの儚さが、まるで祈りのようで、妙に胸がいっぱいになった。干からびた大地に咲く雑草たちは、そこに生きることを自ら選んだ。そこにトマトは実るだろうか、そこで生きることを選ぶだろうか。砂漠に暮らす人々の手の温かさと貴重な水の潤いが、どうかトマトの気持ちを支えますように。どうかどうか、枯れませんように。

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  ヤクの乳搾りをさせてもらった。シューシューシューとものすごい勢いで出るお乳。左右の手から溢れ出るほどで、みるみるうちに木桶を満たしていく。華麗な手さばきに感嘆していると、にっこり笑って新しいヤクのところへ連れてってくれた。私の番である。滑りやすいようにミルクを指先に付けて、おそるおそるお乳に触る。先っぽをちょっとつまむ、が、出ない…。もっと根本からよ、と仕草で教えてもらい、改めてぐっと失礼。ピュッ!出た…!が、切ないほどささやかなお乳。思ったより力がいるんだ。柔らかいけど、ぐっと力を込めるポイントがあって、そこを滑らせると、たっぷり搾れる。ああなるほど…というところで再びバトンタッチ。彼女の手にかかれば、あっという間に絞り終わる。聞けば、彼女は25歳という。同い年。同じ年月を生きてきても、同じように手があっても、目の前にヤクがいて、お乳を搾れる手を持つ彼女と搾れない手を持つ私がいる。この手が何をできるんだろう。もっともっと、この手が生み出せる世界を知りたくなる。

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  肉や乳製品が嫌いとか、そういうんじゃない。でも、いやはや、あまりに多いのである。そして、おもてなしの心が溢れ出るほど、それらを、私たちに与えてくれるから、もう満タンになってしまうのだ。心も体もいっぱい。ちょっと幸せな気分の腹痛ってなかなかないよなあ。バヤルララー、ありがとう。何度言っても上達しないモンゴル語を、明日もきっと言うんだろう。

 

 (当時の旅日記より部分抜粋。
スーテツァエとアロールの歓待が懐かしい。)

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