ひとつのコード進行のみを繰り返しつつ進化していきモノローグ的な歌詞が流れる気持ちの良い素敵な楽曲の、

“誰か”が溢れつつ“誰”作かわからない大流行の最中、

適度に聴くとクリエイションを切り離す難しさ。

音の誰性について発言したくなってでも飲み込んだ。誰かの事でもあり誰の事でも無く自分のことでも無く自分の事でもあり。

楽曲が著名人に支持されているという肩書きやバックボーンよりも、安心できる聴き心地良さよりも、強烈な“誰である”に惹かれる事は、多分リスナーよりミュージッククリエイター側の関心ごとだと思っている。

シンバルをどの長さまで残しているかという細部への拘りとか凄い、という話を聞いて、多分、曲をつくっている人は皆同様にそこを拘ったり手を抜かず意識している、と私は思った。自分自身は拙いながらも最後の消える音の消え方やタイミング、音量まで考えている。しかし、ここをこう歪ませてここまで鳴らせるという判断部分や、自分の任意をどこまで技術的に表現できるかの部分に大きな才能の差があるんだ。

音楽談義で言わず残した。

誰の前のシンバル音か、誰が先立って聴き入るシンバル音か。

反論では無い。けども、楽しいお酒の席で頭を抱えグダグダ思うことを吐いてもしょうがないので、つくるしかない。

聴き負かす為でも認めて貰う為でもなかった無欲の楽しみの、ちょっとした停滞中。

短期間量産型ではつくっていないのでペースは乱れていないが、焦れたりしまいこんだり破棄したりがここんところ続いた。

これは自意識と“誰か”との比較の芽生えだと思う。イクナイ。


大昔打ち込みをやっていたがご無沙汰で試行錯誤なDTMerです。先ずはやってみますな段階。当面は入力にkorg-gadgetオンリーの制限をつけています。