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どうしていつも、あの人の隣にいるのは私じゃないんだろうって思ってた。


好きな人に愛されたいなら、見返りを求めないこと。

どこかで幾度となく聞いたこの言葉に、胸がちくり、と痛む。

誰だって、好きな人には優しくされたいし、甘やかしてほしいし、自分を一番大切だって思ってほしい。それって、当然の感情ではないのだろうか、と思っていた。

「いっちゃんっていつもぐいぐいなのに、変なところで遠慮するよね。」

たまに、私をよく知る友人に言われることがある。

そうだ、私は、変なところで変に配慮してしまって、自分の言いたいこととか、自分の意見とか、なにも発言できなくなることが、時々あるのだ、とそう言われるたびに、昔のことを思い出すのだった。

いつだったか、学生の頃、親友に「◯◯くんのことが好きなの」と打ち明けられたことがあった。その人は、私がその学校に入学してからずっと好きで、わざわざ部活終わり、お互いの帰りの時間を待ち合わせしては、一緒にバスまでの時間を過ごすような、そんな、やんわりとした「好き」で繋がれている大事な人だった。

彼女が、私とその彼との、そのやんわりとした関係を見ていて打ち明けたのか、それとも、何も知らないままだったのかは、あれから10年以上経った今でもわからない。

でも、わたしはその告白を聞いて、ただ、ただ「うん、そうなんだ」としか言えなかった。「応援してくれる?」と聞かれたその質問に、笑顔を見せるのが精一杯だったのだ。

ほどなくして、私はその、やんわりとした「好き」を継続していた男の子と一緒のバスに乗れなくなった。一緒に待ち合わせをしていた、あの噴水の見える公園も、一緒に行こうねと約束していた映画のチケットもそのままで、私は彼に、やんわりとした「好き」を見せることをしなくなった。

「なんで来ないの?」

「今日は一緒に帰れる?」

「俺、なんかしちゃったかな?」

幾度となく向き合おうとしてくれた彼に、「ごめん、本当は一緒に帰りたい」という気持ちを、伝えることは、結局最後までできなかった。

その後、親友とその彼が付き合い出したという噂を耳にした。

楽しそうに彼の隣で笑うあの子の姿を見て、心底思った。

「なんで、あの人の隣にいるのは私じゃなかったんだろう」

悲しくて、辛くて、張り裂けそうな胸の痛みを抑えながら、ひとり家に帰ってワンワン泣いた。あのときの心の痛みを、私は一生、忘れないと思う。

あの時、ちゃんと自分の気持ちを言えていたとして、私と彼が結ばれていた保証なんてないし、やんわりとした「好き」が確実な「好き」に変わった保証なんて、なにひとつない。けれど、少なくとも、「私も彼のことが好きなんだ」と、たった一言打ち明けられていれば、あの痛みを丸ごと一人で、抱える必要はなかったのかもしれない。

本当に大切なものに出会った時、私たちはそれを手放してはいけないんだと、私はあの時の痛みから、そう学んだ。

本当に譲れないものができた時、それを守る力はいるのだと。

自分の「特別」まで、誰かに譲ってはダメなんだと。

でも、それでも、私のこの余計な時に出る遠慮は、まだ時々発揮されてしまう。


なんであの子の隣は私じゃないんだろう。と、目を晴らした日々を思いながら、月を見上げた。

もうすぐ、25歳になる。

あれから10年経って、未来の私は今ここにいるのに、

なにか変われているのだろうか。

もしかしたら、なにも変われていないんじゃないか。

そんなことを、思う。






あなたがくれたこのサポートで、今日もわたしはこのなんの意味もないかもしれないような文章を、のんびり、きままに書けるのだと思います。ありがとう。