クリスチャンだから〝正しい〟わけでも、ノンクリスチャンだから〝間違ってる〟わけでもないよね。
この前、彼氏と喧嘩した。きっかけは、些細な事。
今度一緒に行こうと誘われた旅行について話している時、全くその話に興味がなさそうに電話する彼に、つい、嫌気がさしてしまったのだった。
「私が誘った旅行じゃないのに」
「仕事の都合だってあるのに」
「フリーランスだって暇じゃないのに」
ひとつ、嫌なところが出てくると、次々と〝本当は…〟と思っていた、自分の心の声が溢れ出す。
まずい、と思った。
心の声が溢れ出すということは、イコール、私は肝心な話を、本当に話したいことを、彼には何一つ、伝えられていないんだということに気付く。
クリスチャンになることも
将来やりたいことがあることも
まだ住みたい場所や行ってみたいところが全国各地にあることも
彼は、何も知らない。
何も知らないから、突然不機嫌になった私の態度にも、(?)マークでいっぱいだろう。
そういうことは、なんとなく、雰囲気や感覚が似てるぶん、わかるのに、それでもわたしは、この溢れ出る何かを止められなくて、まずい、と思って、電話を切った。
本当は、話したいことがあったの。
そう伝えれば、きっと彼は話を聞いてくれると思う。けれど、なにか気の利いた答えや、私が安心するような共感は、得られないかもしれないと思う時、それはなんだか、伝えるに値しないことのような気がして、どうしても尻込みしてしまう。
人と付き合うのが難しいんだな、という感覚を覚えて、でもそれって結局、向き合うことから逃げてるだけじゃんって、思った。
本当のことを話して
本当にやりたいことを言って
それに、賛同してもらうことは
正直とても難しいかもしれない。
でもそれは別に、クリスチャンかどうかの話だって、同じ。
向き合う気持ちがなければ、そもそも信仰について、分かり合おうとすることも出来ない。
私はノンクリ時代、一度だけ、クリスチャンが求める〝正しさ〟に違和感を感じたことがある。
「私達の信じる神様こそ正しいんだ!!!」と正しさを強く押し付け合うこと。そのことによって争いが生じたこと。宗派があり、私たちクリスチャンの中でも、◯◯は認めない、認められないというルールがあること。
それを本人達だけで高めあう分には、なんら問題はない。けれども、
「え?君たちの信じてる神様って何者?私たちの方が正しいんだよ!」と、知りもしない他人の領域に土足で踏み入って、ズケズケとそれを否定すること、そんなの誰だって、不愉快極まりないだろう。
聖書はイエス様からのラブレターだと、教会にいる時に教わった。
そのラブレターの中に、私たちが《何を受け取るのか》。
*
神様は、他人のものを急に取り上げたり、自分を信じないものに対して、無理に強要したりなんてことをしていたのだろうか?
自分から去るもの、信仰がないものにさえも、時に救ってあげて、自分を信じないものに対して、信仰が与えられるように、救われるように、祈ってくれたお方だったのに。
少なくとも、その神様が、無理に他人の領域に押し入り、「私こそ正しいのだ!!!」という、横暴な態度をとっていたようには思えない。
そう考えた時、いつも、思うのだ。
クリスチャンこそ正義、では無い。
クリスチャンだって、間違える。
それは、私たちは誰しも自分なりの〝正しさ〟は持っていても、
それが本当に正しいのかどうか、私たちだけでは判断できないからだと思う。
それは人数が多いとか少ないとか
一般的にとか常識的にとかは全く別次元の話で、
誰しも正しくないからこそ、私たちは正しくありたいと願い、そして、神様からの言葉を聞き、受け入れ、信じ、行動していくのではないだろうか。
求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。
マタイによる福音書7章7節~8節
私たち人間は、誰だって間違える。そして、誰だって「正しくない」
だからこそ私たちの上にはいつも「神様」がいるのだ。
ただ、分かり合いたい
ただ、許し合いたい
クリスチャンにも、ノンクリスチャンにも必要なことは、ただ「相手のことを思う」ということではないのだろうか。
向き合う、ということと、相手の立場に立つ、ということは違う。
前者は自分のため、後者は、相手のため。
私が向き合いたいと本当に思っているのは、きっと彼ではなく、自分自身。
自分にとっての「信仰心」そして、「神様」に、いつでも向き合っていたいと思う。
それを理解してくれるか、理解してくれないかは、相手次第。相手の立場になって考えても、それはきっと、変わらない。
私たちには、正しさはないけれど、自由はある。表現したり、話したり、口で伝えたり、抱きしめあったり、祈ったり、歌ったり、そんな自由に、今規制はない。だからこそ、偶像の正しさになんか支配されず、ただ、神様の言葉に耳を傾けたい。どうか、助けてくださいと祈りたい。
ひたすらに、今はただ、そう願うのだ。
あなたがくれたこのサポートで、今日もわたしはこのなんの意味もないかもしれないような文章を、のんびり、きままに書けるのだと思います。ありがとう。