見出し画像

たまたま隣になったあの人と、「また、いつか」で友達になりたい。

話しかけられるのが苦手、という人は
世の中にどのくらいいるのだろうか。

爆音で流すイヤホンから流れる歌声
SNSで繋がる遠くの誰か

携帯を開けば、不特定多数の人たちと関わることは容易だけれど、そんな電波の向こう側に想いを馳せる時、隣にいる誰かに私たちは、ちゃんと気付けているだろうか。

「時間もあるし、動画編集でもするか」

さっき撮り溜めたばかりの動画を、僅かながら携帯のアプリで編集する。
音声があるので、もちろんイヤホンはつけたまま、残り20分ほどはやってこないであろう路線バスを、ただひたすら、1人で待っていた。

残り10分、ふと隣に目をやると、いつ来たのか、可愛らしいおばあちゃんが並んでいた。
目があって、ぺこり、とおじきをする。

とても丁寧な人だな、と思った。
同時に、今やってる編集ソフトよりも、この人とお話しする方が大切な気がして、すぐに携帯をしまった。

「どこまで行かれるんですか?」

そう話しかけると、少し驚いた顔で、おばあちゃんがこちらを見る。
でも、すぐに柔らかい笑顔にかわって、それから10分間、わたしたちは、ふたりでたわいもない話をした。

バスがやって来て、「では、また。」とそれぞれ別の座席に乗った。

そこは一緒の座席でもいいのではないか、と思ったけれど、すぐ後ろにおばあちゃんがいるのがわかって、なんだかそれだけで幸せだな、と思えたから、静かに目を瞑った。

全然知らない隣の誰かと、友達になる。

こういうことが、たまに無性に愛おしくなる。
10分しか話してないのに、わたしはおばあちゃんがどこに住んでいて、何をしているのかを知ることができたし、できればもう少し長く、話をしたかったな、とも思うのだけれど。

絶対に、交わることのなかった誰か。

道行く人とすれ違い、言葉を交わすことなんてほとんどない。

…だけど、そのすれ違う人たちと再び出会える確率は、たぶん、もうほとんど、0に近いのだ。

新しい土地に行くたびに、それを思う。

この先60年生きれたとして、わたしはあとどれくらいの人と出逢えるのだろう。
どのくらいの人と友達になれるのだろう。

その幅を決めたくないから、そうだ。旅に出たいって思ったのだ。

気持ちいい春の風と、おばあちゃんとの優しい会話が、わたしにそれを思い起こさせてくれた。


もっともっと、知らない土地に行こう。
もっともっと、たくさんの人と出会おう。

そして、たまたま隣になったあの人と、「またいつか、どこかで。」でお別れしよう。

そのいつか、どこか、が叶っても叶わなくても、言葉を交わせたひとつの事実は、だってずっと変わらず、わたしの心にあるのだから。



あなたがくれたこのサポートで、今日もわたしはこのなんの意味もないかもしれないような文章を、のんびり、きままに書けるのだと思います。ありがとう。