見出し画像

クリスマスに引き取って大晦日にいなくなった猫が教えてくれたこと ・その2

3年ぶりに日本で迎えたクリスマスの日、私は猫を飼い始めた。「リリ」と名付けられたその猫が失踪し、3日経った今日までにやったことと思ったこと。

人間以外の動物と暮らす

たち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む

この歌の下の句を書いていなくなった猫の茶碗に伏せて置いておくと、帰って来るというまじないがあるらしい。内田百間が書いていたそうだが、私は大島弓子のマンガで知った。
リリは大晦日にいなくなったため、関係各所への連絡は不通。「猫はそんなに遠くには行かない」という通説もあるので、とりあえずスマホの写真見せながら情報提供と発見および捕獲協力のお願いをしてご近所を回った。
留守宅も多いし空き家もあるから全部ではないけど、ご近所で気にしてもらえることに少し安心した。

そして、普段は挨拶程度しかしないような浅い付き合いのご近所さんでも「猫がいなくなった」と言うと親身になって話を聞いてくれ、なかには自分のペットがいなくなった時の体験談やアドバイスをくれる人もいた。インターネットでもたくさんの情報や「早く見つかりますように」といった寄り添いの言葉をたくさんかけてもらった。

リリは喉をゴロゴロ言わせて撫でられるとか、頭を足に擦り付けて甘えるとか、外出から帰って来た飼い主を玄関で待つとか、そういうペットを飼う楽しみを味あわせてはくれなかった。

それでも彼女が来てから、家族である母との会話が増えたり、なんとなく感じられる温もりに心が和んだりして、人間以外の動物が家にいるのはいいものだと思ったけれど、そういう感情、感覚というのは伝播していくものなのかもしれない。

引き取ったばかりの猫が逃げたことはショックな出来事だったが、ペットという生き物を通じて人の気持ちの温かさに触れる経験を持てたことは、いなくなった猫から私への贈り物のように感じられた。

猫にとっての幸せとは

いなくなってから4日後の1月4日、2件の目撃情報が寄せられた。一人はネット、もう一人は張り紙を見て、「自宅から300〜400m離れた場所で(リリと思われる)猫を見かけた」と教えてくれた。

「迷い猫は本能的に水を探すため、川や用水路に沿って移動する」というセオリー通り、家の近くを流れる川(用水路)の先に目撃場所はあった。
どちらも男性で、リリは私にも母にも、元里親の女性にも懐かなかったのに、その人たちには警戒することなく近づいてきたらしい。ということは、元の飼い主は男性なのかもしれないと思ったりした。
そこで、家に来ていた息子を伴って付近を探してみたけれど見つからず、エサだけ置いて、その近くにも張り紙をして帰って来た。連れて帰れなかったのは残念だけど、無事がわかっただけでもひと安心だった。

しかし、それと同時に思ったことは「果たして家に連れて帰ることが本当にリリにとっての幸せなのだろうか」ということだ。

昼間は家の片隅に隠れるように過ごし、夜になると家中を徘徊して鳴くような生活に戻ることと、快適さからは離れるけれど自由に過ごせる屋外生活を続けるのはどちらがいいかはリリにしかわからない。少なくとも捕獲に対して強い抵抗を示すなら、私が目撃場所付近に餌をやりに通う方が彼女の意に叶うのではないか。

30年ほど前に飼っていたミーのように食と住を確保したまま、屋外生活も満喫できるというのは、案外猫にとっては幸せだったのかもしれない。確かに、それでは安全性は十分に担保されず、事故に遭う確率も感染症に罹患する可能性も、家だけで暮らすよりもずっと高くなるけれども、猫には自分の寿命について人間のような執着はないだろう。

また、私が1年ほど働いていたマレーシアの会社近くのカフェでは、厨房のネズミを捕ることと引き換えにエサを与えられている牝猫「クチン」がいた。「クチン」とはマレー語で猫のことだから、多分名前などないのだろう。彼女は私が知ってるだけで2回妊娠しているが、子猫を見たことがないので、「おそらく生まれてすぐにどこかに捨てられているんだろう」とのことだった。最初にそれを聞いたときは思わず眉をひそめたくなったが、野良猫が徘徊している風景は40〜50年前は日本でも当たり前の光景だったはずだ。

画像1

何が言いたいかというと、文明が高度に発達することでそこに生きる人間の生命観も複雑化し、それによって動物に対する扱いも変わってくるということだ。

猫を家に戻し、その中だけで生涯を送らせようとするのは完全に文明化された人間側の意思によるものだと思う。それは、飼い主が「動物によって癒されたい」思いと、周辺住民の「庭を糞尿で荒らされたくない」という事情。前者の欲望を飼い主である私が諦めたとしても、後者の問題は残る。そういう社会の背景があって、現代の日本(のある程度の都市化された地域)では猫を屋外に出すことは「無責任、非常識」とされている。

純血種などで繁殖させる予定のない猫や犬は避妊・去勢の手術を受けさせ、管理できる頭数を責任を持って飼う、というペットの常識は、都市生活においておそらく正しい。でも、それが動物としての自然であるかどうかは別の話だ。

動物と暮らしたいという人間の思いのなかには、「自分の中の失われた自然や野性と触れ合いたい」という本能的な欲望があるように感じるのだが、そのための通過儀礼として不自然なシステムに一旦委ねられなければならない皮肉というのも感じてしまう。


サポートしてくださった方には、西洋占星術のネイタルチャート、もしくはマルセイユタロットのリーディングを無料にてオファーさせていただきます! お気軽にお申し出ください。