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憲法記念日と国民投票法案

昨日は憲法記念日でしたが、炭染のワークショップに出て、初めての染色をやって来ました。めっちゃ楽しかったー!

帰って来てfacebookを開いたら、フレンドの人たちがそのことについて書いていたので、「日本国憲法」について私も振り返ってみます。

反戦の精神と憲法9条

第二次大戦終焉の20年後に生まれた私の世代というのは、基本的に戦争の悲惨さや戦前レジームの反省というものを、強く教育されていると思います。その頃の教育現場には「教え子を戦場に送ってしまった」という苦い経験を持つ先生が現役でいらしたし、また日教組という先生たちの労働組合の力も大きかったです。

彼らが拠り所にしていたのが、日本国憲法の精神でした。特に9条については「世界中で戦争をしないことを憲法で謳っている国は日本だけだ」と言われ、それが本当だったらとても誇るべきことだと今でも思っています。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。

「それが本当だったら」というのは、もうすでにこうした憲法の精神は形骸化しているからです。自衛隊は世界5位の戦力を持ち、世界各地に派遣されています。

今のところ戦死者が出ていないということもあり、自衛隊の海外派兵は日本国民にとってもある種の誇らしさをもって受け止められているとか。

法案が成立されようとしたときには反対していた私も、「他の国も普通にしていることなのに何が問題なのか?」と言われたら、何も答えられないのが現実です。けれども複雑な思いで見ています。

お互いに人権を大切にして幸せになろう

形骸化しているのは9条だけではありません。13条も同じだと言えないでしょうか。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

これは、「みんな幸せになっていいんだよ」ってことなんですが、それを自分に許可できずストレスを溜めている人のなんと多いことか。私も気をつけないと、と思います。

日本の社会では、よく「無私」であることが尊ばれますが、残念ながら自分を大事にできない人は、利害関係のない他者のことも蔑ろにしがちだということが私の経験則です。そして、さらに困ったことに嫉妬深い。

私は自分の中に誰かを妬む気持ちがあると気づいたら、それは自分の気持ちに嘘をついているせいだと思って内観します。そして、置き去りにされている自分の声(本音)に耳を傾けるようにします。嫉妬は時に「正義」の仮面をかぶっていることもあるので要注意です。

話が少し逸れましたが、かように「日本国憲法」は、私たちのことを大事にしようとしてくれています。それが「基本的人権の尊重」というコンセプトであり、そこから「法の下の平等」(14条)「思想信条の自由」(19条)「表現の自由」(21条)「参政権」などが導かれています。

これらは先人たちが何千年もかけて培ってきた叡智です。だって、例えば古代だったら、どの国でも特権階級以外の人間は虫けら同然に扱われていたわけですよね。

歴史が進むに従って「特権」であった「人権」の対象となる範囲は少しずつ広げられ、今の世界では「すべての人間が平等である」ということが前提となっています。だから人権侵害や差別が行われている地域(国家)は国際社会から非難を浴びるのです。

とはいえ、もちろん問題はある

と、ここまで現行憲法を賞賛してきましたが、全く問題がないわけではないということも理解しています。

例えば、国連職員として世界各地の紛争地での紛争処理、武装解除などに従事した経験のある伊勢崎賢治氏は、自衛隊が事実上の軍隊である、ということを前提とした上で、憲法9条との整合性のために遅れている日米地位協定の見直しや、日本人が国際法上の戦争犯罪を犯した時に取り締まるための国内法の不整備についての問題を指摘しています。

また、友人である佐々木重人氏は、代議制民主主義の限界を指摘し、「人口のおよそ1%の署名と国民投票によって、市民の提案が直接、法になる社会を目指そう」とダイレクトデモクラシーを求める動きを呼びかけています。

こういう国民自らが「自分の生きている場所の地平線上にある憲法」という目線で語られる論議はもっと深めていくべきで、その先に憲法改定という選択が必要になるのだと思います。

自民党改憲草案に見られる嫌な予感

しかし、明後日(5月6日)に採決が予定されている憲法改定のための「国民投票法案」とは、こうした動きとは別です。

自民党のホームページにある憲法草案の説明ページを見ると、「憲法が変わっても皆さんの暮らしには何も変化はないですよ」ってことが書いてあって、一見「そうなのか」と安心してしまいそうになります。けれども、どこがどう違うのかを知るのには、このページがわかりやすいでしょう。

「9条」関連で「戦争の放棄」が「安全保障」に変わることや、「24条」で「家族が社会の基礎的な単位である」と明記されていること。そして「閣議決定で緊急事態を発令できる」という「98条」は何を示すのだろうかと考えると、嫌な感じしかしません。

というのは、最近、ミャンマーとベネズエラという、その時の権力者によって憲法を都合よく変えられてしまったせいでとんでもない事態に陥っている国のことを知る機会があったからです。

身の丈に合わせればいい感じになる?

彼らが憲法を変える時には、基本的に自分たちの都合のいい形、つまり自分たちの権力が奪われるリスクを減らすことに注力します。

とんでもない事態になったときに、国民がどうにかしたいと思って選挙やデモで意思表示してもそうさせないようになってるのは、先に上げた二カ国の状況が示しています。

このことを考えると、自民党の改憲草案に賛成するわけにはいきません。すでにTwitterでは「#国民投票法案に抗議します」のハッシュタグが110万を超えたと聞いています。検察庁法改定のときには400万回を超え、廃案となりましたが、それに続けるでしょうか。

しかし、同時にこうも思います。「人権」を抑制する方向にある自民党による改憲草案の内容は、すでに日頃から自分の願望や欲求を抑え、社会の圧力に同調して生きている人、特にそのことによって一定以上の生活水準を満たしている人にとっては、すでに「当たり前のこと」なのだろう、と。

そういう人にとっては、形骸化し、理想というよりももはや建前になってしまっている現行憲法を、自分たちの身の丈に合わせたものにすることには何の抵抗も感じないかもしれません。

むしろ国軍の保持を明記し、いざという時には国家総動員制を取れるようにすることで、日本ももっとピリッとしたいい感じの国になると考えるのかもしれません。

だから、自民党は「何も変わらないですよ」と強調し、世論調査によると今や半数以上の国民がこの改憲に同意しているとか。

絶対に定められた枠組みの中だけで生きていく、与えられた条件で最大限に努力して幸せになる、と決めたら、きっと楽なんだと思います。

しかし、そのためには自分にいっぱい嘘をつかなければならないでしょうし、いろんなことに見て見ぬ振りをしなければならないでしょう。

私はそういう生き方をしたくありません。

不器用でいい、何かを成し遂げたり成功しなくてもいい、無様に見えてもいいってようやく思えるようになりましたが、今後はさらに「反社会的である」という烙印を押されるかもしれません。その覚悟とともに生きようと思います。

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