高句麗長寿王の時代

長寿王は広開土王の長子、広開土王の死により413年に即位、491年まで在位し98歳の長寿。倭の5王の時代ずっと通して生きていた。414年に広開土王碑を建造、倭との戦いこそ広開土王の一生であったと総括したのも長寿王である。父王によって拡大した領土を維持、427年には(現集安の国内城から)平壌に遷都し、中国の南北の王朝とは朝貢によってほぼ好関係を維持、仏教律令文化を取り入れ国力を強め、倭の勢力が衰え始めた450年頃から百済新羅を圧倒し南進、475年には百済首都漢城を陥落し百済は熊川に南遷、新羅北部も含め、半島中部は高句麗支配になった、とみられる。

以下、宋書巻97東夷伝より部分訳。

QT 東夷のうち高句驪國は現在漢土の遼東郡をも治めている。高句驪王高璉(以下=長寿王),晉安帝義熙九年(413年)長史高翼を派遣し赭白馬を奉献したので、長寿王を「使持節、都督營州諸軍事、征東將軍、高句驪王、樂浪公」とした。宋の高祖踐阼時(420年)に詔し:長寿王を「使持節、都督營州諸軍事、征東將軍、高句驪王、樂浪公」とし、百済王映(=腆支王?)を「使持節、督百濟諸軍事、鎮東將軍」と踏襲し「遠い海外なので引き続き貢職(冊封)し、ここに改めて宜しく國を休めるように」と。三年(421年)朝貢してきたので長寿王に「騎常侍,平州諸軍事」を加叙。少帝景平二年(424年)に長寿王は長史馬婁等を派遣し方物を献じたのでこれを慰勞し曰く:「皇帝問使持節、散騎常侍、都督營平二州諸軍事、征東大將軍、高句驪王、樂浪公,纂戎東服,庸績繼軌,厥惠既彰,款誠亦著,踰遼越海,納貢本朝。朕以不德,忝承鴻緒,永懷先蹤,思覃遺澤。今遣謁者朱邵伯、副謁者王邵子等,宣旨慰勞。其茂康惠政,永隆厥功,式昭往命,稱朕意焉。」と。

先是,鮮卑慕容寶治中山,為索虜所破,東走黃龍。義熙初,寶弟熙為其下馮跋所殺,跋自立為主,自號燕王,以其治黃龍城,故謂之黃龍國。跋死,子弘立,[11]屢為索虜所攻,不能下。太祖世,每歲遣使獻方物。元嘉十二年,賜加除授。十五年,復為索虜所攻,弘敗走,奔高驪北豐城,表求迎接。太祖遣使王白駒、趙次興迎之,并令高驪料理資遣,璉不欲使弘南,乃遣將孫漱、高仇等襲殺之。白駒等率所領七千餘人掩討漱等,生禽漱,殺高仇等二人。璉以白駒等專殺,遣使執送之,上以遠國,不欲違其意,白駒等下獄,見原。

長寿王は每歲遣使。十六年(439年)宋の太祖北討時には長寿王は馬八百匹を献納、世祖孝建二年(455年)には長史董騰を派遣し・・方物を献じ、大明三年(459年)には肅慎氏楛矢石砮を献じたので、七年(463年)には詔して「使持節、散騎常侍、督平營二州諸軍事、征東大將軍、高句驪王、樂浪公」(平州は遼寧省から朝鮮半島にかけての地域、営州は北燕の故地)とし「世事忠義,作藩海外,誠係本朝,志剪殘險,通譯沙表,克宣王猷。宜加褒進,以旌純節」と誉め「車騎大將軍、開府儀同三司」を加叙した。その後も太宗泰始から後廢帝元徽中も(476年まで)貢獻は絕えることなかった。UNQT

当時北朝北魏とはギクシャクしても南朝宋(420-479年)との好関係で牽制し総じて南北中国勢力とは安定した関係を保っていた高句麗長寿王である。

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以下宋書東夷伝続き、百済と倭である。百済は遼西にあったと不思議な説を、倭はいわゆる倭の5王を伝えるものである。

QT 百濟國はもと高(句)驪とともに遼東の東千餘里にあり、その後高句驪はほぼ遼東を有し百濟はほぼ遼西を有した。百濟の治めるところを晉平郡晉平縣という。

晋の義熙十二年(416年)百濟王餘映(=腆支王在位405-420年?)を「使持節、都督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王」としたので、これを踏襲し宋の高祖踐阼時(420年)には「鎮東大將軍」に進叙。少帝景平二年(424年)に百済王は長史張威を朝貢貢獻してきたので元嘉二年(425年)太祖詔して曰:「使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王」と叙し「累葉忠順,越海効誠,遠王纂戎,聿修先業,慕義既彰,厥懷赤款,浮桴驪水,獻賝執贄,故嗣位方任,以藩東服,勉勗所莅,無墜前蹤。今遣兼謁者閭丘恩子、兼副謁者丁敬子等宣旨慰勞稱朕意。」と誉めた。その後每歲遣使奉表し獻方物した。七年(430年)百濟王餘毗(=毗有王、在位427-455年)が王位につき朝貢してきたので腆支王映の爵號をそのまま毗有王に授けた。二十七年(450年)毗有王は上書獻方物し「私假臺使馮野夫西河太守,易林式占や腰弩」を求めたので太祖は与えた。毗有王が死,子の慶(= 蓋鹵王、在位455-475年)が即位。世祖大明元年(457年)遣使して除授を求めてきたので詔許した。二年(458年) 蓋鹵王慶は遣使上表し曰く:「臣國累葉,偏受殊恩,文武良輔,世蒙朝爵。行冠軍將軍右賢王餘紀等十一人,忠勤宜在顯進,伏願垂愍,並聽賜除。」と。仍ってそれぞれ叙勲した・・太宗泰始七年(471年)にも遣使貢獻した。 UNQT

百済腆支王映は人質として倭で過し倭の応援で百済王位に(百、紀)、蓋鹵王慶は倭のみならず北魏や新羅にも援軍を求めながら成功せず漢城を高句麗に奪われた亡国王(百、新、紀)であり、この頃百済は独立国の体をなしていない時期が長い。よって南朝(宋・斉・梁)史書では遼西にあるという誤伝を生んだ(直前の統一朝晋書ではなお馬韓とよんでおり百済という国号は南朝ではなじみが薄かった)らしい。

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倭の5王についての宋書原文↓、教科書やウイキで訳があるから省略。なお宋書には新羅に独立の文章はなく倭の勢力圏内とみなしている。

QT 倭國在高驪東南大海中,世修貢職。高祖永初二年,詔曰:「倭讚萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」太祖元嘉二年,讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。濟死,世子興遣使貢獻。世祖大明六年,詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。

順帝昇明二年,遣使上表曰:「封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕百濟,[13]裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝德覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,[14]以勸忠節。」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。UNQT


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