倭の五王を策定する

僭越だが倭の五王は誰か?に諸説あって定説に至らないのも、

神功紀後半応神紀仁徳紀前半を120年繰上げ他方で雄略紀以下はほぼ実年代通り記述したため、この間仁徳紀後半履中反正允恭安康紀で120年分稼ぐ必要が生じ、かなり無理な引き延ばしをしたという一点にある。ここも中国史書によって記紀独特の韜晦をある程度除去できる。以下、結論のみ。

369-389年 神功称制

繰り返すが、369年荒田別鹿我別、371年千熊長彦らを朝鮮半島に派遣して、百済任那軍とともに対高句麗大勝利。半島派軍に反対した仲哀を暗殺。神功自身は吉備らとともに旧邪馬台国をこの時討伐、おそらく旧邪馬台国と親密だった新羅をも支配下におさめる。返す刀でカゴサカ・オシクマ皇子軍を討伐し近畿に帰還。九州系将軍で功労者の襲津彦を葛城、木菟を平群とし大和盆地西側に盤踞させ、息子応神には越気比大神の神性を与えるなどして、応神朝を導く。この体制の北九州・半島南部へのグリップは効いており、その権勢の大元だったとみる。

390-430年 応神「讃」

応神が生まれたのは370年前後、仲哀の子として正統性を主張するが、実は武内宿禰か襲津彦の子といったところ。神功死亡と若き応神即位(390年)が高句麗に伝わり、高句麗広開土王(在位391-412年)の怒涛の南下につながる。405年頃までは押されっぱなしだったが応神政権はその後巻き返し、広開土王を継いだ長寿王(在位413-491年)は450年頃まで平和路線を取ったおかげで、応神後期には半島の失地も回復。その大規模な軍事役務体制は仁徳にかけて転用され各地の大古墳・灌漑・土木工事に宛て、また人の移入や様々な文化技術導入が進む。

応神の晋や宋へ遣使(413, 421,425,430年、晋書南史宋書。413,421,425では「讃」と明記)、高句麗の協力もあって5年に一度の遣使だったと読む。

433-440年 仁徳「珍」

応神死後、王位を兄弟で譲り合い3年空位、応神が望んだ弟は自害し兄の仁徳が即位、仁徳は民の竈に煙が立たぬのを見て3年課役免除、と紀。聖王伝承だが半島から相当貢納あったとすればあり得ないことでもない。高津堀江・茨田堤・和珥池・栗隈大溝など大規模土木工事が応神後期から続く。百舌鳥仁徳陵墓の記事は仁徳67年(379年)にあるが60年繰り下げると439年となる、440年死亡との本策定に見合う。

3年空位の後433年頃宋に遣使、「讃が死んで弟の珍が立った、百済新羅を含む6国諸軍事と倭隋ら13人の部下の除正を求めた。6国は許さず安東将軍倭国王のみ、13人除正は認める」と宋書倭国伝。3年空位兄弟譲り合う話が誤伝され応神の弟仁徳とされたと読む。5年後438年遣使、この時も安東将軍倭国王で引き下がっている。高句麗から客、鉄楯鉄的、の話もこの頃で、高句麗とは緊張を避けている。

443-454年 允恭「済」

紀は仁徳後各6年の履中・反正を挿入するがどうか?。応神朝は兄弟継承末子相続の節があり、譲り合いか骨肉の争いかはともかく、3年程度継承争い期間を見る。そして末子の允恭で安定する。

さらに5年後443年に宋に遣使、安東将軍倭国王のみ。本来なら448年に遣使すべきところ、そろそろ新羅が疲弊反倭・倭体制もマンネリ・長寿王も南下策に転換などから、遣使を取り止め。非公式にどういうやり取りあったか見えないが、宋が折れる形で、451年には倭王済に、百済を除く6国諸軍事を加除、安東大将軍に進号、部下23人除正も認める。

454-461年安康(「興」倭国王世子)と倭457-479年雄略(「武」自称7国諸軍事大将軍、在半島)で一時並立

紀は3年安康ついで雄略と書くがどうか?允恭死前後も猛烈な後継者争い(皇太子木梨軽皇子・眉輪王・安康・雄略)があったようで、兄弟世代で生き残ったのが末子雄略。雄略紀の頭で百済姫を殺すとか蓋鹵王(在位455-475年、百済滅亡へ)の弟を奉遣とかあり、允恭死亡時に皇子将軍として雄略は半島にいたと想像。木梨軽皇子か安康かいったん継いだが倭国内治まらず、最終的には雄略が帰国して軍事強権で覇権を確立したのだと読む。

宋への遣使は次は456年だが允恭死後の混乱で派遣できず5年後461年(宋書記録は前年12月)倭王「世子興」として遣使、これが(皇太子木梨軽皇子か)安康か。宋は並立状態を知っていたとも考えられ「世子興には倭国王安東将軍」だけを与えてお茶を濁した。雄略は現場を分かっているから、遣使などあまり意味があると思わず止めていたが、百済の滅亡(475年)をみて百済まで認めるなら意味あるかと思い直し、477年478年と2度にわたり、百済を含む7国諸軍事・大将軍を自称して宋に遣使、立派な上表文もしたためた(あちこちのパクリだがそれでも半島で戦争経験した皇子将軍の文章と感ずる)、宋はもう末期だが一応チェックはし百済は生き残っていると認定し百済を除き従来並みの新羅を含む6国諸軍事・安東大将軍とした。雄略にしてみれば百済を認めないならもういい。以後遣使はやめた。

なおこのあと中国側では、南斉(479-502年)が479年倭王武に鎮東大将軍を加除(南斉書)、梁(502-557年)が502年倭王武に征東大将軍を加除(梁書)しているが、いずれも前政権禅譲慶事に伴う記録上の加除にすぎず、雄略はすでに死に後継倭王も(雄略の遺志に従い)遣使はしていない、と読む。

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