神功皇后紀1)
紀より神功皇后紀。
1)仲哀9年2月、新羅攻めを語った神を信じなかったため仲哀は死に、同3月神功は、自ら神主となり、武内宿祢に琴を、中臣某を審神者(サニワ)に、まず神の名を聞く。神は幾人も登場するが、天照の荒魂・住吉の三神=上筒男・中筒男・底筒男(日向の橘小門の底にいる。紀では神代でも登場済み)など。以下、神のことばに従ってのことと読むが・・
2)吉備臣某が熊襲国を撃つ、幾日もしないうちに熊襲は自ら服してきた。
3)また荷持田村(ノトリタノフレ、甘木野鳥、北九州連合の一角)の羽白熊鷲という空飛ぶ強盗がいるので、神功自らが、香椎宮から松峡(マツヲ)宮に遷り討伐、さらに山門県(邪馬台国の故地?)土蜘蛛田油津媛(タブラツヒメ)を撃ったが兄の夏羽は逃走。4月には松浦(旧末羅国)を巡察。
4)このようにして神功は「神の教えに験ある」としって、儺河水(那珂川)に神田を設け、香椎浦に禊し髪を解くと自ずと両つに分かれ髻(ミズラ)を結い、群臣に諮り新羅攻めの了解を取り付け、同9月諸国に命じた。しかし「軍卒は集まらず」、今度は「大三輪社」を立てて祈ったところ「軍衆おのずから集まった」。時はたまたま応神の産み月となったが「凱旋後に産む」と宣言し石を腰に押しはさんで、天照の荒魂を先陣に、10月対馬鰐津を出港した。神助によりあっという間に新羅は下り、矛を新羅王の門に樹て、新羅王ハサムキムは80隻の財宝とともにミシコチハトリ干岐を人質に差し出した。これを聞いた高麗百済の両国王も戦っても勝てないと属国となった。これを三韓という。12月には凱旋、筑紫で応神を生む。
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以上三韓征伐まで全編神かかっており、他方で内容はわずかで、とても史実とは言えない。
しかし前段、熊襲は吉備氏が一蹴(おそらく熊襲の反乱は事実ではなかった)、むしろ旧邪馬台国中核と思われる山門で田油津媛(タブラツヒメ)を神功親しく征伐している点を注目すべきだ。吉野ヶ里周辺で首なし遺体など戦乱遺跡があるが、この時のものとみる。かつて誇った邪馬台国連合はこの時はもうなく、博多湾海沿いの岡・伊都・儺(=奴)国ら貿易派は神功らと組み(同盟、後述)、平野内陸の旧邪馬台国らは反神功で徹底的に壊滅させられた、と読む。
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