乙巳の変、黒幕は百済

承前。乙巳の変と大化の改新の実相については今や百家争鳴だが、流石に「黒幕は百済」と言い切る向きは少ないので、以下少し丁寧に補足説明します。なにか新証拠があるわけでなく、あくまで前後の日本史展開を無理なく説明納得できる点で百済黒幕説が他よりマシということ。今までそう言えないのは、半島で日本関与貢献を語らないのと同じく日本史の要のところで朝鮮人にしてやられたなど認めたくないという偏頗な国粋民族主義が主因。昔から行き来あるのだから影響力が高まる時期や分野があるのはお互い様と素直になるべきです。

1)当時百済は日本で最も勢力のある外交団を持っていた。

聖徳太子時代は高句麗、天武時代は新羅が大きな影響力を持っていたようですが、聖徳太子亡きあと天智の死まで、百済の影響力、人やお金で倭の政治に影響を与えたこと、は大きい。まず人の層が違います。

631年(舒明3年)百済義慈王(三国史記は同年太子になったと)の子(五男)豊章、人質として倭に。義慈王即位(641年)の政変で「弟王子翹岐とその同母妹4人、身分高い人々40名を島に追放した」と紀はいうが事情の説明ないまま、642年(皇極元年)4月には大使翹岐として倭に登場、天皇や蘇我蝦夷に会う。蝦夷は「自ら物語し良馬一頭に鉄20鋌を贈った」「ただし(百済王の意向に従って?)塞上(翹岐の弟か豊章の弟か)のみは招待しなかった」とか。また同7月には百済大佐平(左右大臣格)智積らが百済使として都に入り宴会や相撲を楽しみ智積は「翹岐の門を拝した」というから、翹岐の身分は高くしかもその後も(人質王子豊章と共に)倭に滞在していたとみる。大化の次の元号は白雉だがその白雉お披露目式典(650年白雉元年)では左右大臣百官と並んで固有名詞筆頭に「百済君豊章、その弟(国史伝統では義慈王の弟と読む)塞上忠勝」を挙げる。のち持統朝では百済王(こにきし)を日本の氏族化するがその初代の善光(=禅広)は豊章の弟で一緒に人質として渡来してきていたという。要するに身分高い百済人が複数一貫して日本に常駐、一大グループ、高句麗や新羅を圧して一大外交団を作っていた。

2)舒明紀の「百済宮」「百済大寺」も奇怪?

これも今日の常識ではキッカイな話。日本の首都か皇居を百済宮と呼ぶようなもの、国史は百済人移住者の多い場所につくっただけとシラッというが、どうにもお金に汚い蝦夷入鹿(馬子は葛城の地が欲しいと推古にねじ込み、馬子の墓は聖徳太子上宮の労働力を徴発したなど)や舒明皇極だ、相当なお金が動いたとみるべき。舒明は死んでなお百済の殯といったというから(主要な富は蝦夷入鹿の吸い上げられ)舒明朝は百済のお金で食っていた、百済宮百済大寺百済殯の命名は百済がスポンサーだったから、と読むのが素直だ。なお敏達の時にも百済宮があったと紀はいうがここはどうか(後世の韜晦?)。

3)不満王族を束ねたが王族の対百済観はバラバラ

643年入鹿が山背大兄を滅ぼすと、さすがの父蝦夷さえ「入鹿を愚かと罵りお前の命も危うい(汝之身命、不亦殆乎)」といったと紀はいう。蘇我父子誅殺は皇極と皇太子古人大兄こそ知らなかったが、それ以外、後の孝徳(軽皇子)天智(葛城=中大兄)天武(大海人=おそらく漢皇子)ら主要王族は同意していた。危機感をあおり陰で唆したのは、淵蓋蘇文や義慈王の政変に詳しくこの時代荒治療がいると主張した百済外交団、とりわけ豊章や翹岐あたり。もちろんその動機は力強すぎてお金に汚い蘇我親子(642年義慈王が任那取ったことを知った翌643年貢納時に早速任那調の分が足りないと文句をつけている)を排除し親百済の政権、自分たち百済人の立場がさらに良くなること、義慈王への援軍派遣、あるいは亡命地確保あるいは乗っ取りもひそかに考えていたかもしれない。

しかし蘇我を倒したから直ぐに親百済に政権が変わったわけではない。蘇我親子(物部の主要財産も吸収していた)の財産は王族や蘇我支族で山分けしたものの、その他古族はたくさんあるし裏で画策したのは韓人(=百済人)と多くは気付いており、若く純粋で百済に取り込まれている中大兄を後継者に、とはならない。むしろ伝統的外交そのまま=三国等距離外交・お金を持ってきた先を優遇する、孝徳、が座りがいい。百済外交団としては不満だったろうが(紀、乙巳の変直前の記事は「百済太子餘豐、蜜蜂房四枚を三輪山に放養するも終に繁殖せず」と讖緯的記事、乙巳の変を改作する前の文章が残った?)、さらに時間とお金をかけ中大兄を陰に日向に支援し育て、十数年後の白村江戦へと導くわけだ。

4)公地公民も亡命百済人のため?

大化の改新の目玉は公地公民だが、これも亡命百済人のためのガラガラポンだったとすると分かりいい。白村江戦前後百済からの亡命者は数万だった、それまであちこちの開拓地を渡来人に割いてきたがもう限界、百済人も人間、良民としてちゃんと遇すべく、ガラガラポンに踏み切った。時は大化というよりもう少し遅く斉明天智軍事独裁体制が最も充実した頃に公地公民を発表した。のちに他施策も併せ整理して一連の「大化の改新」とし645年のこととして紀に書かせた、とみる。

5)壬申の乱で天智派は負けたがこの反動?を乗り越え天武死後、持統不比等(天武の妻というより天智の子としての持統、不比等は豊章=藤原鎌足の子)らは巻き返し天皇藤原体制を事実上「不改常典」として発布。奈良時代は天武系皇統や古族(吉備真備、物部?弓削道鏡ら)が残りなおギクシャクしたが、平安時代には「天皇藤原体制」が盤石となりその後の日本の基本構造のひとつとなる。


以上百済を補助線に考えるとこれまでうまく説明できない古代日本史多くの不思議や謎がなるほどと納得いくようになる。以下各論でそれはそれ、都度触れます。

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