橘三千代は百済の王女

藤原鎌足不比等父子同様、県犬養橘三千代も実は百済の王女で、幼いころから天智天武の皇女たちと共に育ち学んだからこそ、この時期、比類なき出世栄達できた、と考えるのが素直だ。県犬養の娘ではいかに有能優秀でも持統以下元明元正女帝や藤原出身皇后たちとの厚い信頼関係など成立しがたい。さらに美努王と生き別れしてまで不比等に再嫁し光明子を得てこれを聖武皇后に据えるなど、百済の王族の血であったがゆえに、主観的にも客観的にも罷り通ったこととみる。以下、橘三千代の一生、【国史常識】と併せ、⇒弊rac説、ま一仮説としてお楽しみください。

【その誕生年・両親について国史は、665年頃(死亡は733年69歳?)、県犬養の出だが父母不詳、と。藤原不比等後妻で持統紀以降後宮で重きをなし、文武元明元正聖武光明子を支え、元明からは橘の姓を賜り橘諸兄の実母、三位に上り長生きまでしたのに、生年も父母も伝わらないというのは本人以下が隠したからとみるべきだ。三千代の生年の根拠は、天武の氏女徴募制が(各氏族から若い優秀な男女を中央に吸い上げる制度、県犬養からの貢納出仕とみ)679年三千代この時15歳程度と推定、(先夫美努王との初子)諸兄の生年684年(=三千代20歳ころ)や(不比等との娘)光明子生年701年(=三千代37歳ころ)と無理ないから、そんなところというにすぎない。】

⇒不比等も三千代に一目置いたのは、その能力のみならず血統的にも不比等を上回る百済の王族だったから、証拠は何もないから想像というしかないが唐に降った百済王太子隆の娘だった、とみる。既述通り、扶余隆は白村江戦前後弟豊章と密かに会い、隆はこの時点では唐の支援で百済王に復帰できると夢見ており豊章と手打ちし白村江戦はこの意味でも半分ヤラセだった。しかし唐はその後百済を隆に返すことなどせず(熊津都督として一時派遣するが)やがて新羅によって百済の故地も奪われ、隆は籠の鳥として(名目だけの熊津都督帯方郡王として唐土に抑留され生き延び682年)68歳で洛陽に死没。隆自身がもはや唐に抑留される身と見極めた時点で(それが665年ころとみるが)それなら愛娘(あるいは斯麻王の時のように子をはらんだ女官)をすこしはマシな倭の豊章=鎌足に託したのだとよむ。隆の子供が倭にいるなどと知られれば唐とモメルはずで、豊章は天智天武とも話したうえで(自分自身は中臣にそうしたように)県犬養に大金をつけて戸籍を確保した。

この時代の県犬養で記録が残るのは壬申の乱の功臣・天武の博打の友・天武殯で宮中のことを誄(しのびごと)したという県犬養大侶。天武近臣で侍従長のような立場。三千代は大侶の子ではなく東人の子でただし東人は不詳と国史はいうが、まさに天武も承知の上で三千代を県犬養一門の子として戸籍を与えた。そして三千代は高貴の出だし、天武は子らには鷹揚だ、天智天武の娘たちと同じく扱い仕込んだのだとみる。

【持統紀以降の三千代の尋常ならざる出世の糸口は、草薙正妃阿閇(=阿倍、天智皇女で持統の異母妹、661~721年)が生んだ軽皇子(後の文武天皇、683~707年)の乳母に取り立てられたからなどと国史はいう。】

⇒しかし三千代665年生まれなら阿閇より4歳若くしかも三千代初子の諸兄は軽皇子の翌年684年生だから、経験豊富たるべき乳母に採用したとは考えにくい。むしろ、天武の飛鳥浄御原宮にて同世代としてともに育った姉妹のようなものだったとみる。草壁(662-689年)大津(663-686年)忍壁(刑部、662-705)と三千代は同世代、天智天武の皇女たちでは、阿閇(後の元明女帝)や新田部以下若い世代と同世代、不比等と同様に三千代も幼いころから一緒に育ったとみる。その周辺には名門戦争孤児や百済等亡命貴族の子女もいた、そして優秀な男女もいるではないかとなって、天武679年前後名門子女を徴募する(官人宮人学者僧などの卵)制度のきっかけに逆になったと読む。

【美努王との結婚、682年頃三千代18歳のころ、という。679年県犬養の氏女貢納で宮人、682年頃美努王と結婚、683年に文武の乳母、684年諸兄を生む、というのが国史の説明だ。】

⇒これでは三千代は忙しすぎる、そうではない。美努王(=三野)の父は長く筑紫大宰を務めた栗隈王、665年頃三千代が百済からひそかに入国したときには一肌脱いだ可能性がある。672年壬申の乱時は栗隈王は筑紫大宰として天武側につきその際傍らに立って父を守ったのは若き美努王兄弟だったと紀はいう。栗隈王は675年功臣として召喚されて大伴の上に立ち「兵政長官」となったが翌676年には死んだという。この時、美努王兄弟も天武の子女養育機関に引き取られ三千代と再会、時に美努王は20歳、三千代は11歳、なお不比等も近くにいて18歳、というところだ。この後活躍する皇族子女にとって彼らは兄貴格姉貴格だったとみるとその後の歴史を理解しやすい。

【三千代の子らについては国史いう通りで異存ない。すなわち美努王(657ー708年)との間には後の橘諸兄(王名は葛城王、684-757年)・佐為王・牟漏女王(むろ、695-746年、北家房前の室、冬嗣の曽祖母)、藤原不比等との間には後の聖武皇后(光明子、701-760年、孝謙女帝の母)・多比能(諸兄の室、奈良麻呂の母、嵯峨皇后嘉智子の曽祖母)。】

⇒三千代系図で確認いただければいいが、みな高貴な一族に連なっており、県犬養程度の出ではありえずここも百済の王女であったとするのがいい。また藤原は不比等の子孫のみに藤原を名乗らせ他はみな中臣姓に戻すが(698年文武2年)、橘の姓も明らかに三千代個人に与えられたもので男系は美努王なのに諸兄以下が橘を名乗る(736年)ことを許される。中臣も県犬養も一時の便法だったのはここからも明らかだ。

【皇族以外で女性が固有名詞付きで正史に登場するのはそれまで皆無だが、三千代の場合、元明即位翌年708年に橘姓を賜わる、元正即位の翌々年717年(光明子が皇太子妃になって父親不比等だけでなく母親たる三千代にまで)従三位を賜るなど、元明元正女帝の扱いは極めて手厚い。】

⇒女帝たちにとってそれほどに特別な厚意を示さねば気が済まないほどの存在だったということだ。持統以来不比等は朝廷政治表舞台で無理筋の皇統を支え続けるが、草壁系というだけの理由で半ば無理強いされ皇位につかされた女性たち=元明(草壁正妃)元正(元明の子、文武の姉)にとってメンタルの負担は極めて大きく、それを公私にわたって支え切ったのは、橘三千代であったといって過言ではない。

⇒では不比等と三千代の結婚(今風ならダブル不倫だ)は、子の光明子が701年生まれだから、これ以前。二人の意向というより、ここも持統の強い勧めがあった、とみる。

⇒前記事とダブるが、不比等三千代夫妻の歩みを総括する。

1)不比等登場の最大の誘因は、持統の実子草壁を皇位に付かせたいとの執念。天武死亡直後に、人望集めた大津皇子を謀殺(686年)。これは持統が主犯で不比等はお手伝い程度。不比等は新鋭知識人として来るべき草壁天皇のスタッフとして頭角を現し始めていた。ところが草壁は急逝(689年)、持統は高市皇子を太政大臣に据え自らは称制から即位に切り替え高市の即位を妨げ草壁の子文武の成長と即位を企図。高市太政大臣は大人であり持統なしでもうまく回すようになる、そうなると持統は穏やかでなく30回にわたり吉野詣を繰り返す。高市体制では出る幕のない不比等は持統との連携を深め、文武が14歳になった696年不比等の娘宮子を文武キサキとすることを条件に、高市謀殺に協力。持統は周到で持統家中で既にやり手だった三千代を(持統としてはスパイとして)不比等につける(これに先立つ694年、持統は夫美努王を筑紫に転勤させている)。697年持統譲位の形で文武即位するが、実は持統文武不比等体制が確立。この時期、藤原は不比等系統に限る(698年)、何度も試行してきた律令をこの体制にふさわしい形で完成(701年大宝律令)、不比等漸く表に出て正三位大納言(701年)、文武キサキ宮子は首(聖武)を生み三千代は光明子を生む(701年)、持統とは光明子を聖武皇后にする約束も取り付けたろう。順風満帆だが好事魔多し、頼みの持統ついに死に(58歳702年)、不比等一人では天武系や古族の反感を抑えきれず刑部皇子(天武4男)を知太政官事に据え取り込む。

2)悪いことは重なり文武は707年25歳の若さで死ぬ。天武系や古族を排除し藤原橘の優位を維持すべく、文武母阿閉が元明として即位。この時期、不比等は右大臣や5千戸封戸のお手盛り(本格的に土地や民を得てしかも伝世しはじめる)、不改常典(万世一系、嫡男嫡孫承継だがつなぎの女帝あり、先帝の意向絶対)明文化、首(後の聖武)の競合者を排除すべく紀・石川の嬪を排除(文武の他の息子たちは天皇継承権を失い経済的基盤も弱体化)、記紀伝説改編、など独裁を強化する。宮子はノイローゼのままだがさすがに元明も不比等絶対に疲れたらしく715年には娘元正に譲位、それでも持統と同様に太上天皇として元正や不比等に協力は続ける、これを宮中家中にあって支えたのは三千代であった。女たちの政権だったといって過言ではない。

3)720年ついに不比等死没(62歳)。不比等は早晩(724年に実現、25歳)首=聖武即位を条件に、長屋王(=高市太政大臣の嫡男)を厚遇して油断させていたが、元明元正三千代の女性連合はこの延長で721年長屋王を右大臣=朝廷第一位とし、同時に不比等の子の武智麻呂・房前ら4兄弟、三千代実子の橘諸兄佐為兄弟を優先登用、さらには聖武には光明子に加え県犬養広刀自をあてがい次期男子確保に努める(727年光明子は基皇子生むも夭折、728年広刀自は安積皇子を生む)。が潜在競合者たる太政大臣長屋王の方は奥方も皇族・藤原・阿倍・石川(蘇我)と豪華で男児も多く人心も集まり繁栄(長屋王政権の723年三世一身法で公地公民原則に大穴をあける)、これに危機感をいだいた藤原4兄弟は長屋王一族を謀殺(729年、藤原所生児以外の長屋王一家惨殺。とくに長屋王正妃は草壁と元明の子、元正の妹、男児3,4人;すべて殺している)、おそらく4兄弟の独断で、長屋王一家惨殺には元正聖武三千代の女性連合は噛んでいないとみる。

4)729年長屋王の変以降、藤原4子+諸兄(この時期は葛城王をまだ名乗る)体制となり藤原勢(+元正聖武三千代)勢回復、同年光明子は晴れて聖武皇后、非皇族の皇后は初ともいう画期。(なお紀は仁徳皇后磐之媛を非皇族出身一号というが、弊rac説は応神父が九州襲出身葛城襲津彦で磐之媛の父でもあるから、実は叔母甥の皇族婚。光明子は藤原不比等(百済王子豊章の子)と橘三千代(百済王女)の子だから百済王族、当時知る人は知る公然の秘密。卑母を毛嫌いした持統は不比等の子であった宮子(卑母賀茂?実は海女?)をノイローゼに追い込み、他方で三千代と娶せたのもこうした背景もあった、半島は同姓婚を嫌うが中国文化の影響で当時の百済は北方系天神系で血統純粋性を重視した。)

5)733年橘三千代、内命婦正三位という女性としてはかつてない高位で死没。このあと、聖武政権を支える女性たちは、元正太上天皇(748年、69歳まで)、光明皇后(701~760年まで)、母宮子(754年、70歳前後まで)らとなる。彼ら女たちには長屋王一家惨殺はとくに罪深いものであり、案の定罰が当たり737年天然痘で藤原4子が死んでしまい、藤原の栄華は一挙に褪せる。橘佐為も天然痘で死亡、諸兄のみ生き残りこのあと権力を握るが、女たちは、不比等の合理律令周到な世界から、仏坊主頼みの怪しげな世界に迷い入り(聖徳信仰・東大寺国家仏教・道鏡ら)、不比等が作り上げた天皇独裁制を無駄遣いし壊していくのである。

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