百済の陰謀、白村江へ

乙巳の変は中大兄皇子と豊章(=藤原鎌足)が中心で実行したが、後継はすんなり中大兄とならず、孝徳が天皇となった。このあとの出来事、を紀から。

645年 軽皇子が即位、孝徳天皇。阿倍内麻呂左大臣、蘇我倉山田石川麻呂右大臣、僧旻と高向玄理が国博士。紀は、皇太子中大兄、内臣中臣鎌足と書く。直後、古人大兄皇子(紀一書に皇太子とも、舒明と蘇我馬子娘の子)一族誅殺。難波長柄豊碕に遷都。

646年より 一連の大化の改新、公地公民(豪族の部曲・民、王族の屯倉・民の私有を禁止)、中央から国造等官吏派遣、食封や布による給与制、口分田と班田収授、租庸調、駅伝軍備、八省百官整備、律令や僧尼管理、など順次。遣唐使遣隋使や朝鮮三国の先例に学ぶ。ただし唐制をそのまま使うことはせず、元号衣冠はじめ独自。

647年 新羅金春秋、来倭。645年には(642-百済義慈王が任那を取ったことを倭は知って)百済に任那調を約束させ、646年には高向玄理を新羅に派遣し任那調を新羅が納めることを禁止(倭として百済の任那保有を承認し)、647年是年に金春秋、高向とともに来倭。(三国史記によれば647年1月に毗曇の乱、毗曇ら30人誅殺、真徳女王即位。この後の訪倭か。なお翌648年閏12月金春秋父子、唐太宗に面談。唐新羅同盟成立

649年 阿倍左大臣死す。蘇我右大臣、蘇我日向身狭の謀反讒言により自殺。蘇我の資産を公収。右大臣娘で皇太子妃の造媛憤死、蘇我日向は筑紫太宰帥に転出(紀は左遷と書くが実は栄転?)。(こうして大蘇我の財産は大半、天皇家に帰属。3月ひと月のうちに左右大臣が死亡し)後任は巨勢徳陀古左大臣、大伴長徳右大臣。

651年 金春秋来倭の前後、百済使以上に新羅使来倭が目立つが、(唐新羅同盟により唐制度を導入した新羅に対して)新羅使が唐の服を着て筑紫に着いたことを咎めて帰国させる。

653年 第2回遣唐使、2隻送って1隻沈没、鎌足の子僧定恵が渡唐。以後654年第3回(トップ押使高向玄理は唐で客死)、659年第4回、縦続け。名門でなくとも優秀子弟を派遣、文化技術を習得。なお第1回遣唐使は630年、その帰り高表仁を同行したが高表仁は「綏遠の才なく」倭の王子と礼を争い唐太宗の命を伝えず帰任、648年に倭は新羅経由で上表文を出したうえで23年ぶり第2回遣唐使を派遣(この項旧唐書)。

653年 中大兄皇后皇極皇弟以下、天皇の意向に反し(645年以来難波長柄豊碕宮だが、有馬温泉や難波小郡・大郡など移動好き?)倭京に帰る。天皇も天皇を辞めるといい山崎?に籠り、翌654年孝徳難波に死す。

655年 ここでも中大兄皇位につけず、母皇極が重祚して斉明天皇、飛鳥板葺宮。是年、高麗百済(100余名)新羅(20名?)使来倭、蝦夷隼人帰属。

656年 高麗(81名)使来倭、答礼で遣高句麗使、大使膳臣・副使坂合部連・大判官中判官小判官という本格的なもの(高句麗への派遣は久しぶり、649年(唐太宗)655年(唐高宗)高句麗侵攻を止めた淵蓋蘇文体制盤石ぶりを見たかったものか?)

656年- 前年板葺宮火災の後、岡本宮両槻宮吉野宮の造営、石垣水渠須弥山など立て続けに土木工事、斉明天皇の「狂心、渠に人夫3万余・石垣に7万余、宮林ただれ、作る随におのずと壊れなむ」と時の人謗ると紀。

657年 沙門智達らを新羅使に随行させ唐入りを要求するが新羅承知せず沙門ら帰国。翌658年智達ら詔を得て新羅船で唐に入り玄奘法師に学ぶ。(新羅が意地悪した話を紀はわざわざ挟む?)

658年 阿陪臣、軍船180艘で蝦夷を討伐、是歳阿倍引田臣比羅夫、粛慎を討つ。蝦夷200人朝廷に参上。有間皇子(孝徳と阿部左大臣娘の子)、蘇我赤兄に騙されて絞殺される、享年19。なお斉明天皇はこのとき紀温湯行幸。

659年 紀温湯から帰りすぐ吉野や近江に行幸。阿倍臣蝦夷討つ。第3回遣唐使、江南路で、唐高宗と面談するが高句麗百濟攻めあり、伊吉博徳らそのまま唐に抑留される。

660年1月高句麗使者賀取文(がすもん)ら100余名、筑紫に着く。3月阿倍臣軍船200艘で粛慎(蝦夷?北海道に行った?)を討つ。3月賀取文ら難波館に入る、7月賀取文ら帰国。9月百済使者、唐と新羅が組んで7月百済を滅ぼ(義慈王ら降伏)したが、遺臣福信らが王城を保っていると報告。10月百済の貴智来倭、唐の捕虜百余を奉り、救援軍の派遣、人質の豊章を国王に迎えたいと願う。12月斉明天皇、難波宮に入り諸軍器を備う。

661年1月難波をたち5月筑紫朝倉宮に入る。唐で戦後解放された伊吉博徳ら耽羅王子らと共に5月朝倉宮で面談(捕虜となった義慈王以下50名が連行されているのを博徳らは前年11月唐で目撃、この話もしたはずだが、紀は語らない)。7月朝倉宮で斉明天皇崩御、中大兄称制。8月中大兄、阿曇河辺阿倍物部守を将軍として百済救援軍を派遣断行、兵器兵糧も送る。9月豊章に織冠・多臣妹を妻に贈り5千の兵をつけ百済に送る、福信ら出迎えて全権を委譲。

どうにも怪しいのは、義慈王以下のみじめな姿を唐で見た伊吉博徳らが斉明天皇に筑紫朝倉宮で伝えた2か月後に崩御、直後中大兄称制がついに百済援軍に踏み切っていること。常識的にはあり得ない判断で、むしろ斉明謀殺を疑うべき。孝徳の死も怪しい、当時難波には三国外交官や唐関係者もいて様々な生情報が飛び交ったところ、三国史記百済本紀には653年まだ勢いある義慈王13年8月条に「倭と国交(=同盟)を結んだ」とある(紀は一切触れない)。

次世代天皇候補の古人大兄・有間皇子は無実謀殺とみる向きが多い。大海人皇子(=漢皇子)は皇極斉明の長子、中大兄とは異父兄として連携一連の改新を担った可能性が高い(但し親百済か親新羅かの違い大)。また王家は蘇我や阿部の本家をつぶし膨大な遺産を取り込み、同時に公地公民(豪族支配とくにその土地と民の私的所有を否定)で権力中枢の支配力は事実上高まった。孝徳が宮を頻繁に変えたり斉明が温泉や狂気の土木工事できたのは、一昔前の蘇我全盛期と真反対で、彼ら王家にいかに経済力支配力が集中したかを示す。そしてこれを実現したのは若き中大兄と大海人、そして遣隋使遣唐使で帰還した若き(名門古族でない)エリートたちによる改新政策、

そして裏で画策したのは、身分高く一番厚い外交団を持っていた百済の豊章や翹岐(外交団で公地公民云々の枠外)。応神や雄略であったことだから百済義慈王がこけても倭の力で復活できると信じたかはともかく、うまくいかねば残る百済の王族貴族人々を連れて日本で豊かな亡命暮らしをすればよいと代替案ももっていた。福信ほかを裏切りいかにもやる気のない戦争をし、数百隻の船団は記録上失ったことにし(大敗戦焼失)、膨大な百済遺民遺産を手に日本に引き揚げた、そして日本の朝廷では氏族「百済王」とは別に大織冠「藤原」鎌足一門として大繁栄した。記紀編纂710年前後、紀にもとても本当のことは書けないし唐にもバレルと大変だから数多くの韜晦をした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?