藤原不比等の一生

日本書紀を最終的にまとめたのは不比等;ここは今や定説だ。そして父鎌足については(弊説だが、百済豊章であることを隠し切り)中臣・藤原鎌足として実態以上に大きく描いたが、不比等自身については逆に実態以上に小さく描き位職異動などの最小限の記録にとどめた。以下、不比等の一生を【国史常識】と並べて⇒弊rac説、を紹介する。

誕生・父母:658年生まれ。父は鎌足、母は車持与志古娘(よしこいらつめ)。誕生地は後岡本宮ないし母実家。ただし古くから天智天皇のご落胤、あるいは父は鎌足でも母は車持でなく正妻鏡女王、との説もある。】

⇒鎌足=豊章でたくさん妻妾がいたが皆記録されず、不比等の系統のみ(兄定恵は夭折)公式には残ったから中臣云々・あまり聞かない車持云々デッチアゲ韜晦した。母は(百済攻めに際し)正妃(と正式認知された)多氏、とみるのがいい。天武紀に入って多(太)氏があちこちで活躍したのもこの縁による(藤原が天智のみならず天武とも好い関係だったことは既述した)。

青少年時代:中臣出身で扶養氏族は田辺史大隅だから史というと伝える。紀の史(=不比等)初出は持統3年(689年)で判事に任命、とあるだけで(藤氏家伝も不比等編は現伝せず)この時31歳になるまで青少年期の記録はない。】

⇒繰り返すが、実父は白村江敗戦で百済の遺民を率いて日本に正式帰化した扶余豊章。日中朝正史では豊章は高句麗に逃げたことにしたが戦後賠償で劉仁願郭務悰らに追いかけれらもし、天智に頼んで中堅貴族中臣の一門に加えて貰い中臣鎌足の名を帰化後使用、その際妻妾もたくさんいたろうが整理し、中臣姓は定恵と不比等の2男、氷上娘・五百重娘・耳面刀自・斗売娘の4女とした。不比等の母を多氏と言ってしまえば豊章を想像させるから、韜晦のために車持氏を創作した。また妹五百重娘と不比等はのちに結婚しているから同母兄妹ではあり得ず、五百重娘の母は百済名門なのかも。

⇒669年(天智8年)鎌足死す、56歳。天智の盟友寵臣だったわけで鎌足は近江大津京に大邸宅をもち、不比等(11歳)ら子たちも上記だから母元でなく鎌足邸に同居していたろう。実は前百済王の子女だから天智・天武(藤原賜姓と大織冠位は天智が皇弟大海人を鎌足邸に遣って授けたと紀はいうほどだから)の子たちとも親しく共に勉学鍛錬していた、とみる。

⇒672年壬申の乱で大友皇子は討たれ、天武は飛鳥浄御原宮(岡本宮の南)に戻るが、子の世代には鷹揚で宮も狭いから天智天武の子らと不比等の近しい関係も続いたとみる。が679年には皇后持統の意向とみるが卑母への拝礼禁止、持統腹の草薙優位を認める吉野盟約(このとき草壁18歳、大津17歳、高市26歳、忍壁18?;天智の子の川島23歳、志貴12?。なお不比等は22歳)、681年草壁立太子、683年大津皇子始聴朝政(太政大臣格?)と進むが、不比等はともに育った仲間、それぞれの強弱も知る兄貴格、だがあくまで藤原姓の臣下として距離を持ちつつ、草薙以下子弟はもちろん天武とも持統とも往来があった:子供の時から他の臣下とは別格だった、と考える。

持統朝:686年9月天武崩じ皇后持統が称制。草壁25歳と大津24歳は仲良し兄弟だったとみるが、持統が実子草薙を優先、10月大津謀反とされ訳語田(おさだ)の自邸で賜死、新羅僧が唆し近かった川島皇子が密告した、あるいは草壁妃石川郎女と密通した(万葉集105-110)からとも。大津正妃山辺皇女(天智の皇女)は髪を振り乱し素足で奔り寄り殉死した。謀反というにもかかわらず紀は「天武の三男、天智にも愛され、容止墻岸、音辭俊朗、長辨有才學、尤愛文筆、詩賦之興、自大津始也。」と激賞する。】

⇒大津は持統の姉大田皇女の子、大田皇女は大津5歳の時667年死亡。姉の遺児だから持統に愛情も義務感もあったろうが、持統の子草壁は病弱平凡だったのに対し大津は健康優秀、放置すれば人心を集め草薙には機会はなくなると吉野盟約など天武在世中から持統は畏れ、天武の死に際し一挙に大津排除に踏み切った。不比等はこの時29歳、草壁にも大津にも兄貴格だったが、おそらく大津には古族がつき草薙には持統しかいないが古族が強い(=慣習優先・律令後退・親新羅)中では藤原は生き延びていけないと展望して、ここで一気に持統と心中する覚悟を決めたのだと思う。が紀のみならず懐風藻や万葉集も大津を悼むこと甚だしく、持統や不比等の大津謀反事件への忸怩たる思いを見ていい。

【持統称制の689年2月藤原不比等ら若手9人が「判事」に任命、この時不比等32歳、紀初出。4月皇太子草壁死亡。この年持統2度吉野入り、新羅弔使を追い返す、志貴皇子(天智末子)や古族を「撰善言司」に起用。飛鳥浄御原令を諸司国司に配布、戸籍徹底浮浪者取締四分の一の兵制武事習得、博打禁止の詔。半島出身者に土地を与える記事も立て続け。】⇒この年すでに天武時代とは違う方向だったと紀は強調する。

⇒689年4月草壁の死、28歳。この年は1月吉野入りと2月判事9人任命記事から紀は起こすが、この9人は(大津謀反に連座したはずの数名も含む)草薙と不比等のスタッフで大津死後には立ち上げ政策を練っていたとみる。持統1月吉野入りは草薙と9人のスタッフを率いてのものだったかもしれない。が4月に草壁が急死、大ショックだったに違いないが紀は「皇太子草壁皇子尊薨」の9文字のみ、天武系皇子や古族による謀殺だったかもしれぬが紀は何も語らない。いずれにせよ、持統政治を描き引っ張っていったのは不比等をはじめこの時の9人の判事。常に韜晦の不比等だが低位官人の名をあえて紀に出したのは彼らへの感謝と敬意と読む。

690年1月持統即位と7月高市皇子の太政官就任。持統即位式は前例ないほど儀式張って物部が大盾を立て神祇伯中臣大島が天神寿詞を挙げ忌部が剣と鏡を奉った。7月高市皇子太政大臣に、右大臣に丹比島真人、八省百寮の官人を遷任。持統はこの年5回吉野入り、以後毎年高市の死まで吉野入りを繰り返す。高市時代は、民や官人へのバラマキや古い神々や仏教を大事にするなどの記事が目立ち、藤原京遷都が大きな課題だがなかなか進まない。天智系皇子・古族慣習・新羅交流が復活。高市体制は6年続くものの697年高市太政大臣死す43歳、紀は「後皇子尊薨」の5文字のみ、これも謀殺を疑っていい。】

⇒持統即位(=草壁の子、軽皇子=文武に継承したい)と高市太政大臣就任は、689年皇太子草壁死後の、高市皇子+古族と持統+藤原一派の妥協の産物。高市37歳と古族慣習に対して持統と軽皇子8歳の女子供ではとてもかなわず「八省百寮・大宰国司は皆遷任」との紀表現は持統側には人事権は殆どなかったと読んでいい、持統はやる気がなくなり狂ったように30回吉野通いや地方行幸に気晴らし;ただし藤原不比等ら持統スタッフは公布済みの律令を武器にやれることはやったが限界。基本ずっと雌伏し待っていたのは持統復権と文武が大人(せめて15歳)になること。この間、律令戸籍租庸調整備・天皇継承ルール変更や氏姓整理・そのための記紀改編・(古族を飛鳥から引き離し金を使わせるべく藤原京へ、だが抵抗強く失敗した)遷都・大陸風権威的儀式朝服暦法整備・原万葉集懐風藻歌い文句作りなど準備すべきことを黙々やった、不比等らは不機嫌弱気になりがちな持統に様々に入れ智慧もし激励もしたはずだ。

⇒持統即位時持統46歳、不比等は33歳、上記スタッフ長としてすでに一家をなしていた(判事)が、父以来の百済系スタッフや協力者支援者もいたに違いない。また妻妾として南家武智麻呂・北家房前・式家宇合らの母たる「蘇我媼子」、文武夫人となる宮子の母たる「賀茂比売」など伝わるが、媼子も賀茂比売もいかにも名門っぽいが詳細不明で実は百済系の可能性もある。なお光明子の母たる「県犬養三千代」(この時美濃王夫人)との結婚は高市の死の前後とみる。

696年7月高市の死の一年後697年8月持統譲位、15歳の軽皇子=文武天皇即位。譲位も15歳天皇即位も慣習的にはあり得ないことだが、懐風藻に「日嗣位衆議紛々、天智孫大友長子の葛野王37歳が神代以来子孫相承が国家の法、兄弟相争えば乱、天心聖嗣自然と定まれり、と言い切って弓削皇子以下を叱ったので止んだ。持統はその一言が国を定めたと嘉した」という。が、神代以来直系子孫継承など史実と違うことは皆知るところでここはまさに記紀改編など不比等ら革新官僚の様々な準備が結実した格好。なお紀の掉尾は「天皇(持統)、定策禁中、禪天皇位於皇太子(軽皇子=文武天皇)」と。】

⇒万葉集などで天皇並みと偲ばれる高市皇子の名も書かず「後皇子尊」と記し(「前皇子尊」は草壁で両方とも天皇並みだったとも読めるが)、直後に(上記葛野王とは別に)多品治らに褒美、また右大臣丹比眞人に資人120人、大納言阿倍御主人と大伴御行の両名に資人80人、石上麻呂と藤原不比等の両名に資人50人を賜うと紀は書く。高齢名門ばかりのなか39歳不比等厚遇が顕著。勘ぐれば高市謀殺への貢献、男盛り42歳高市の死はそれほど尋常ではない。

697年8月15歳文武天皇即位。以後持統58歳で死ぬ702年まで、持統と文武の共同統治で安定、不比等は持統の下で最強の立場を確保する。すなわち、早々に文武に娘宮子夫人を嫁がせ(ほかに紀・石川氏の嬪あり)、698年藤原姓は不比等子孫に限るとして中臣を排し、699年天智陵修復、700年大宝新律令制定(刑部=忍壁皇子がヘッドだが不比等が実際の総責任者)と位封功封(とその伝世)を定め、701年40年ぶり本格遣唐使(702年出帆、粟田真人ら4百名、日本の新出発を武則天以下に連絡、帰国はみなバラバラ)、その他儀式・仏教儒教統制、本格支配が九州や越後に及んだことなどこの時期の特徴。】

⇒文武天皇以降は「続日本紀」の記事になる。不比等が表に出てくる。記紀ほどの造作はないがそれでも藤原への忖度は尋常ではない。

702年12月持統太上天皇58歳で死ぬと703年正月親しかった刑部皇子を知太政官事とし不比等権力維持(705年刑部死ぬと穂積皇子を知太政官事に)。707年6月文武天皇も25歳で死ぬとその母阿閉が即位元明天皇47歳。708年不比等食封5000戸(実際は2000戸)と右大臣に。表裏ともに不比等が牛耳ったといっていい。710年平城遷都、不比等宮城東に8町に及ぶ邸宅を確保(後の長屋王さえ4町)、皇子たちの父祖父として権力維持。715年元明が譲位し氷高皇女36歳(草薙元明の長女、文武の姉)が元正天皇として即位。718年首皇太子(このとき18歳、後の聖武天皇)と安宿媛(同い年18歳、後の光明皇后)が阿倍内親王(孝謙)を生む。717年次男房前を参議に加え藤原氏は2参議体制を実現、720年日本書紀を公表して不比等死ぬ。権力のピークのまま死んだといっていい。】

⇒国史は不改常典や黒作懸佩刀(草薙から聖武天皇まで伝えられた刀で不比等が預かったり献上したりした草薙男子承継の象徴と美化される)の話を喧伝するが、持統の草薙系へとの強い思いを利用し他の有力な皇族男子や古族を排除、天皇に本来無理筋の女子供を据え、同時並行に天皇中央集権制を整備し、実際には自ら政治権力を牛耳じりそれを藤原の子孫に伝えることに専心した、とみるべきだ。

⇒改めてまとめておくと

1)蘇我本家を倒した天智天武の延長で中央集権と律令を強化し、古族と土地人民の紐帯を切り離し、公地公民の名の下で中央の人民支配・徴税・軍警察を強化、古族の力を削った。いわゆる公地公民の実態は、三位以上に位封、参議以上に食封、功績者に限り功封など認め、土地人民を事実上持てる王族貴族をごく一部に限定、(古い氏族たちからはその支配する人民土地と軍隊技術者を巻き上げ王権に帰属させ)結果多くの貴族は中央王権の官僚となり給与を貰う立場に落ちた。他方皇族と藤原や親藤原貴族(大伴阿倍軍事貴族や‘壬申の乱‘功臣)に対しては初めから(一部であれ)相続も認めたので、皇族藤原のみ巨大化、多くの古族は王権に隷属弱体化した。

2)律令といっても不比等のそれであり、例えば太政官と並列の神祇官を設け(祭祀の天皇と太政官以下政治を握る藤原一門という祭政分離、ヒメヒコ倭伝統を織込み最初から祭政分離を意図した可能性もある)、持統のための太上天皇制や宮子光明子のための皇后制など独自の女子供向皇室の仕組みを、制度や記紀先行で作り実現していった。持統の草薙系に譲りたい思いに即した美談のようにも国史はいうが、実は不比等の政治権力確保のための総合的な(律令から記紀万葉集懐風藻に至るまで)仕組みの一環にすぎない。

3)公地公民の理屈は、異民族支配だった北魏以下隋唐律令に学ぶところが多く(漢帝国支配層から土地人民を取上げ唐隋異民族帝国に変換するに放っておけば400年かかったものを、北魏流公地公民と隋唐律令のいいとこどりで一挙に実現)、この辺はまさに当時の百済人や大陸出身者の知見を総合したものでもあった。また暗殺謀略もいとわないことや天皇家古族への冷淡さは、日本人離れしており百済の王家の出(豊章の子)であったとみるのがいい。他方で不比等は(百済王の孫として)天智天武の子供たちと一緒に育ったとみる(草薙大津皇子から後年知太政官事に起用する刑部穂積舎人皇子に至るまで不比等には幼馴染の弟分格だった)が、それでも両者の間には君臣の線引きはあったに違いなく、そのコンプレックスも不比等独特の感情の一部になっていたからともみる。


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