崇神以下年代を策定する

記紀は年代を遡らせる点でも大して難しいことはしていない。記は年代策定は潔く放棄し「古事」物語することに専念、紀はそれではあんまりとばかり即位について原則太歳で記述する。暦法が入ったのは後であろうが記紀共通のこだわりの強さからみるに、倭の大王らしい時代となればその大王名と即位年など(妻子血統・都とお墓の場所、崇神はもう古墳時代だ)は伝えられ、即位年については暦法が入って以降干支でも語り伝えてきたとみる。

国内記録だけでは年代策定は無理で外交記録(および中韓の金石文書史書)のクロスチェックではじめて光明が見えてくるが、魏志卑弥呼の記録ではむずかしく(紀の引用はいかにも「やっつけ仕事」でダメ)、

結局、神功紀荒田別鹿我別将軍の半島派遣を369年(紀を干支2巡繰り下げ、石上神社七枝刀銘、紀記述と中国史書朝鮮三国史記で一致など。既述)とみなすのがもっとも合理的、と判断。これを年代「確定」の基準年とする。

そうなるとあとはそれほど難しくなく、紀即位干支年に従い仕分け直していくと・・

崇神即位は甲申、西暦264年。

・・即位に至るまで前政権と長い戦いがあり、疫病もあって民の大半が失われたあとのこと。それ以前出雲吉備から近畿に入ったのは250年頃だろう、

垂仁即位は壬辰、272年。

景行即位は辛未、311年。

ヤマトタケルらによる長い国内戦が続くが、成務のときに一応の和平繁栄を得た。余力をかって、念願の北九州攻めに向かったのが仲哀神功、ここで百済支援と半島進出を決めたのが神功武内一派。仲哀は反対して粛清され(369年)、神功一派は一挙に北九州と新羅をも勢力下に収める(371年)。翻って、成務系後継者を倒し、20年ばかり神功称制のあといわゆる応神朝を成立させる。

応神即位は庚寅、390年。

神功皇后出産逸話は信じて生年は371年、父は襲津彦、即位時は数え20歳の青年だった。

雄略以下は歴史の繰上げはしておらず、神功後半応神では干支2巡120年繰上げ、神功前半で50年、景行で50年、垂神で60年、崇神で60年、さらに繰上げた。その分年齢在位年数をかさ上げし出来事を引き延ばしたり関連古伝を加えたりした。それだけのことだ。

以上で340年かせぎ、神武以下10代でさらに420年かせぎ、神武即位を西暦紀元前660年辛酉年と定めた。

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