秦韓は弓月君の故地?


「宋書」は倭王珍(仁徳)から武(雄略)に至るまで、倭が軍事制覇している国として「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国」を主張し南朝宋も一時認めた、と記す。

記紀作者は宋書のこの記述を知らなかったあるいは無視したのだが(魏志や晋書に梁書や隋書はみたが、宋書の成立は早いものの南朝系であり見落とした可能性あり。そして記紀にないせいだろう)、そのご日本史家も長く秦韓=辰韓、慕韓=馬韓と安易に読みよく検討しなかった節があるが、

今や「慕韓」は後期前方後円墳群が確認された全羅南道(の多く)とし、「秦韓」については未だ通説ないが、rac的には「秦韓」は秦氏祖「弓月の君」の故地、新羅の西北、百済や高句麗との国境際、中原高句麗石碑(忠清北道中原郡、現忠州市)界隈、と策定する。


紀は応神紀14,16年条で「弓月の君」については百済動向と重ねて書く。

「応神14年(403年)春2月百済王(阿花王)縫衣工女を貢上。この年弓月の君百済より来帰。「新羅が妨害して我が国(弓月国)120の県の民が加羅に留置されている」と。倭は襲津彦を派遣し弓月の民を加羅から召喚しようとしたが襲津彦は3年経っても帰還しない。・・応神16年(405年)百済阿花王死に、(倭に人質の)直支(腆支)太子を返し即位させ(ここは「三国史記」も認める)東韓(阿花王が枕弥多礼・ケン南・支侵・谷那を失ったので倭から甘羅・高難・爾林の三城、忠清北道から全羅南道にかけて)を与えた。さらに平群木菟宿禰・的戸田宿禰を派遣、新羅を牽制して、弓月の民と襲津彦を帰還させた。」

391年来、403-405年には高句麗広開土王が大挙南下し一時倭軍を海岸にまで追いつめ、百済に至っては阿花王敗戦領土喪失、そしてこの時「秦韓」も滅亡し、弓月の君以下数千人が日本に帰化したものと読む。秦氏はユダヤの流れとの説まであるが、秦や韓に淵源を持ち、絹・鉄器・陶器・土木・馬産業に知見ある技術集団としてどこにいても重宝された人々で、忠清道のような山間部(中原という通り各国に接する要地でもある)でもやっていけていたが、倭の強い勧誘もあって亡国を機に日本へ移住した。その記事と読む。

魏志東夷伝では馬韓50余国十万余戸、辰韓弁韓合わせて24国四,五万戸、といい、他方で倭については奴国2万、投馬国5万、邪馬台国7万などと言う。応神はこれより百数十年後だが大きくは違うまい。中国文明には近くても朝鮮半島の寒く貧しい小国に比べれば、倭は南海の温暖で豊かな新天地と思えたはずだ。史上三国と呼ばれるまでに百済や新羅が急拡大したのは、もう少しあと(半島南部から九州東国に至る領域をカバーしていた)雄略独裁体制が一挙に崩壊した後とみる。三国史記にある新羅本紀や百済本紀のこの頃の記事は大国過ぎ独立色が強すぎと評価していい。

この辺は、むしろ記紀に責任があり、神功応神ー雄略紀をもう少し真面目に書いておいてくれれば(中国史書からみえるのは高句麗から百済までであり、新羅や倭となればもう一つ奥の世界で直接的言及はほとんどない時代だ)12世紀三国史記を編纂した金富軾も現伝のような記事にはできなかったと思う。金富軾は史料をあたり倭の関与の大きさを感じていたと思うが肝心の記紀でこの時代の記述がそれに否定的である以上、当時の新羅や百済を実態以上に大国独立的なものとして記録したのはむしろ当然だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?