応神朝の外交史

「宋書」倭の五王の勇ましさに比べると記紀の応神朝はなんとも牧歌的だ。それでも、神功応神以下干支2巡120年繰り下げ(雄略以降はそのままに)半島との外交記事らしきものをピックアップすると下記通り。現南北朝鮮では12世紀編纂の「三国史記」をそのまま信じる向きが多いが、広開土王碑ひとつとってもかなり異同あり、わが「記紀」記述も読みようで、史実に迫る一助にはなる。少し遡って・・各項⇒解説である。

364年(仲哀2年)仲哀神功軍が熊襲征伐に向かう。⇒この年北九州軍が反倭に傾いた新羅(奈勿王)を大挙して攻め(新)、この情報を得て仲哀神功軍が虚をつく形で北九州に向かったと読む。

366年(神功46年=仲哀4)斯摩宿禰を卓淳国に派遣云々、⇒仲哀神功軍、百済の危機=高句麗南下を初めて知る。

367年(神47)百済・新羅ともに使者来る。⇒対高句麗の百済新羅倭同盟成立。(同じ頃、倭=北九州+近畿、連合成立し、新羅は倭に未斯欣を人質に提供した可能性も残る。366から遅くも368年には百済新羅同盟成立、は百済本紀と新羅本紀が記録するが、倭の協力を意識的に無視しているのが三国史記の一面だ。)

367年(神47)千熊長彦、新羅に派遣。369年(神49)荒田別・鹿我別を新羅百済に派遣、369年百済(+倭任那∔新羅)連合軍は高句麗に勝利、370年(神50)千熊・荒田別・鹿我田凱旋。371年(神51)千熊・久氐ら再度百済に派遣。371年百済連合軍高句麗に大勝(高句麗故国原王戦死)に貢献、372年千熊・久氐ら凱旋、百済王から七枝刀など献上。

371年(仲哀9)吉備祖鴨別が熊襲を下す、同時に神功みずから北九州の羽白熊鷲・田油津媛らを討伐(=邪馬台国の滅亡)。⇒千熊(=クマ、九州系将軍とよむ)が百済戦に出陣中にいわばだまし討ちしたのだと読む。

375年(神55)百済の(近)肖古王死に王子貴須(近)仇首王即位。382年(神62)新羅朝貢せず襲津彦を新羅に派遣するが戻らず。⇒邪馬台国とは近かった新羅が高句麗の外交的接近もあって百済・倭との同盟から離脱していくと読む。襲津彦は(熊)襲の将軍で南九州系、葛城の祖は事実かも知れぬが武内宿祢の子とは後の付会。

384年(神64)百済貴須王(近仇首王)死に王子枕流が即位、385年(神65)枕流王死、王子阿花年少のため叔父辰斯が簒奪。⇒がこの辰斯王が高句麗広開土王に392年大敗し百済亡国に向かう。

392年(応神3年)百済辰斯王「貴国天皇に失礼をなし(広開土王に大敗したことを指す、と読む)」故に紀・羽田・石川・平群氏を百済に派遣、百済は辰斯を殺して阿花(=阿莘王)を即位させた⇒百済本紀は敗戦後10日行方不明、行宮で死んだので、阿莘が継承したと書くが、日本書紀の記述も史実。

なお同じく392年(応3)には、各地の海人騒ぐ、安曇祖大浜宿祢が平定、海軍長官に任命と紀は記す。高句麗本紀は、この年広開土王、関彌城(江華島)をも水軍動員して攻め落としたとあり⇒後ろに倭水軍がいることを承知で倭水軍を攪乱したことも十分ありうる。倭は371年来20年の平和で油断していたと読む。394年(応5)諸国に海人部と山守部(海軍と陸軍?)を定め、伊豆国に大型船造船(枯野=軽野?)を命じる。⇒394年になって漸く戦時動員をかけている、よって辛卯391年に倭が海を渡って百済新羅を臣民にしたとの碑記載はここからも事実ではないとみていい。事実は392年に譴責救援で紀羽田石川平群軍を急派したが役立たず、この間広開土王は快進撃で396年までには漢江まで百済北部を支配下に置く(碑、高、百)。

396年(応7)高麗人百済人任那人新羅人来朝。池を作らせる。⇒396年までに百済は北半分を失うが、この間、捕虜流民など半島から大量に人が来朝したことは間違いあるまい。記紀は戦争などより学者技術者文化導入の側面を強調する。

398年(応8)百済人来朝、阿花(阿莘)王、無礼(=敗戦)つづき、わがトムタレ・ケンナン・シシム・コクナを失う、王子直支(=腆支)を天朝に派遣詫びる、このまま人質となって在倭。⇒401年には広開土王は新羅を救済し倭軍を任那に追い詰めた(碑)というから、時期も当たっている。

403年(応14)百済王、縫衣工女を貢上。弓月君百済から渡来、葛城襲津彦を弓月の人夫を迎えに加羅に送るも3年経っても襲津彦帰らず。404年百済王、良馬2頭献上、馬場を設ける。⇒百済は高句麗に押されっぱなし、新羅は親高句麗の実聖王(402-417年在位)で頑張っており、倭としては一時鉄源コクヤ他任那まで失うテイタラク。

405年(応16)百済から学者王仁(わに)来朝、この年百済阿花(阿莘)王死に、倭に人質となっていた直支(腆支)を帰国させ東韓を与え百済王とする。⇒百済本紀にも同趣旨ありほぼ史実。なお東韓の説明、紀にあり。

405年(応16)平群・的戸田らに精兵を与え派軍、国境に迫り新羅降伏、襲津彦や弓月の民も来朝。⇒新羅本紀にも明活城(慶州普門里)攻防など同記事(ただし撃退と)あり、408年まで倭はたびたび侵攻と。碑では同年帯方郡に倭が出没と。405年になって倭は失地回復に本格的に軍を派遣したと読む。

409年(応神19)倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖阿知使主(あちのおみ)が17県の党類を率いて来朝。

411年(応22)難波淡路島吉備小豆島に巡幸、⇒吉備媛を追っかけてと紀は書くが、この時吉備国一部を近臣らに分けたともいい、軍事再編と見る。

414年(応25)この年、百済直支(腆支)王死に、子の久爾辛が即位。年少で木満到が代行、倭の威を借りて専横、天皇もたしなめたほどと。⇒百済本紀は腆支王の死を420年、宋書は430年、と。なお紀には418(応39)に直支(腆支)王、妹を天皇に遣仕、との記事もある。この頃倭系と非倭系など百済王統分立混乱しているとみてよい。

417年(応28)高麗王の使者が来朝、倭の太子、文章が無礼と破り捨てる。⇒高句麗広開土王死に長寿王5年目で倭との戦争状態を改めたいとの動きだったかもしれない。

420年(応31)諸国に500の船を献納させる。武庫港に係留していたが、新羅の船から失火して燃え移り、新羅は詫びて船大工が送ってきた。⇒この年には新羅の献納がある関係に戻っていたことも示唆している。広開土王(392-413年)死に、親高句麗の新羅実聖王(402-417年)を殺して、新羅は訥祇王(417-458年)の時代に、高句麗は人質を帰し(日本の未斯欣も逃げ帰り)、前奈勿王の長子訥祇が即位(新)。半島では戦争疲れが出て皆休みたい中で、逆に倭はここへきて戦争動員強化の様子もある。

426年(応37)阿知使主らを呉国に派遣、縫工女を求める。高麗経由の高麗の案内で達成。430年(応41)阿知使主ら筑紫に帰国。⇒宋書の425年に倭王讃、司馬曹達を派遣して貢納、にあたるか?。なお宋書倭遣使は前後421年、430年にもあり。が紀は縫工女を求めてなどと繕う、記紀編者は宋書(500年頃には成立、魏志倭人伝や晋起居注にまで触れるのに)も見ていたはずなのに宋書倭の五王に殆ど触れないのは確かに奇っ怪である(次記事)。


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