藤原鎌足は扶余豊章

鎌足(中臣、614-669年)は若き中大兄皇子(=天智天皇)を盛り立て、乙巳の変で率先して蘇我蝦夷入鹿を殺し大化の改新を進め、百済に派兵するも白村江戦で惨敗、死に臨んで敗戦責任を語るも、天智天皇の信頼は厚く最期には大織冠と藤原姓を賜った。その後の日本史名門藤原の祖。これが「紀」の書く藤原鎌足であり国史の基本常識だ。

天智天皇は鎌足より一回り若いとされる。鎌足には定恵と不比等の男子2名のほか何人かの娘がいたが(娘二人を天武天皇の妃としたがより親密だったはずの)天智に娘を嫁がせたとの記録はない(天智の子の大友皇子=弘文天皇には娘を嫁がせたらしいが)。紀は天智と鎌足の強い絆、他方で天智の大海人皇子(=天武天皇)への強い警戒を強調するが、この辺は紀最終編纂した不比等の作文とみるべきで・・実際はどうだったものか?、鎌足は天智とも天武とも好い関係を保っていたらしい記録は他にもある(鎌足がいれば壬申乱など起きなかったと天武が言った(紀)、天武が怒って槍を突き刺したとき鎌足が仲裁した(藤氏家伝))。

660年百済が事実上滅びた後になってようやく倭は百済救済軍を派遣するわけだが天智と鎌足(=百済王子豊章)がいかに熱心であっても、斉明・大海人以下王族や名門古族が反対する限り踏み切れず、斉明の死(暗殺?)までみて大海人らも反対せず何とか実現したとみていい。663年3月倭軍27千派軍の条件は、長期戦は避け負けるようならさっさと引き揚げてくる、その人材技術財産狙いで親倭百済人を亡命させることには反対しない、そして多氏(天智より大海人に近かった名門古族のひとつ)を豊章(鎌足)に娶せる(豊章出征前の661年の事)など。天智という人は純粋情熱的理想家肌だったとみるが鎌足=豊章の方は現実的で常に代替策逃げ道を用意、謀略型で、天智を盛り立てるが天武とも協調するという人、そして民心を得られず福信ら強硬派とうまくいかなくなると案外早く日本に帰ってくることに切り替えうる人だった、とみる。

不比等は(659年生だから成人になってからだが)そういう父、鎌足(=豊章)をどう思っていたものか、案外父として人として嫌いだったかもしれない、それゆえに、紀では作文して鎌足=豊章であることは徹底して隠しまた天智に一貫して忠誠だったと少しはマシな鎌足像を作り上げた。

「中臣」との縁、系図を作り上げたのも、白村江敗戦後の天智と鎌足の時代のこと。壬申の乱で幹部クラスではひとりだけ斬り殺される「中臣連金」が親天智大友の代表、対して中臣の中で親天武の代表が「中臣連大島=藤原朝臣大嶋」、大島は金の甥、金と鎌足は従弟などという系図もこのころの中臣家の協力があって作り上げられたもの。乱のおかげで大島が金の代わり中臣の氏長を引き継ぐ。

「多氏」もこのころ頻出するが一門だが、出征する豊章に嫁いだのが「多蒋敷(おおのこもしき)の妹」(うまくいけば百済王の正妃)、そして蒋敷は「太安万侶」の祖父といい安万侶はご存じ古事記の編者。壬申の乱緒戦不破関を抑え美濃軍を迎え入れ乱勝利に導くのが蒋敷の子の「多品治(おおのほむじ)」。多氏一門も天智系と天武系に分かれていたとみるか初めから親天武とみるかはともかく、「中臣大島」「多品治」は天武の博打仲間(天武紀14年9月、ほかに「県犬養大侶」の名もある)とあり天武が心を許す仲間だったとみていい。いずれにせよ鎌足=豊章が一枚かんでいたとみて矛盾はない。

氏姓の整理はこの国では頻繁に行われるが天智664年の「甲子の宣」はとくに急増した百済系亡命貴族の取り込みが一目的で、それまで中堅どころの中臣(豊章=鎌足の身元引受)や県犬養(橘三千代の身元引受人)が百済王族を身元引受け協力し、この時代出世の糸口にしていくわけだ。

「藤原」の名が紀に初めて登場するのは允恭紀。皇后の悋気をはばかる允恭が皇后妹衣通郎姫のために別宅を建てる、その地が藤原。素直にのちの藤原京あたりとみる。大和三山に囲まれる地区だ。鎌足はここで生まれ、墓もすぐ西の二上山にあると伝わるが、飛鳥からこの一帯まさに王権の中核部で(葛城や蘇我氏の近傍)中臣あたりの所有とは考えにくく王家の土地を舒明(百済宮百済大寺百済殯の時代だ)ー天智時代に(百済王子豊章=)鎌足に割いたと考えるべきだ。

改姓までしたのは、唐(中央というより劉仁軌以下半島進駐軍)から戦争賠償責任者として名指しで追及されるのを避けるため、が直接の理由。その戸籍や先祖伝承を中臣家から借り(一族として扱ってもらっ)た。幸い天智天武の改新、ドタバタ時代で国内でも誤魔化し切り、子の不比等は、実態とはだいぶ違う天智・鎌足像を作り上げ早くから内大臣鎌足とデッチ上げ紀に記した。たまたまこの時代の「日本書」紀が後世に伝わり箔がついたわけだが、すでに仲麻呂「藤氏家伝」の時代には紀の記録がおおよそ史実として扱われるまでになっていたとみていい。

鎌足=豊章説は最近では関裕二さんら主張され、また小林恵子さんまで行くとさらに「天智は百済亡命王子翹岐・天武は高句麗淵蓋蘇文」とまで主張されるが、日本朝鮮史書はともかく中国史書にそういう記述が全くないことは重く見るべき。

ま前後周辺事情を見ていく限り、上記数回の記事弊説あたりが最も矛盾なく話の筋も通り妥当と自負する。


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