刀伊の寇

承前、新羅や大加羅の王族が入ってきて乗っ取った(あるいは逆に倭人が半島に侵攻して乗っ取った)というならまだしも、さらに北方の遊牧民が崇神垂仁の元などありそうもない、という向きには「刀伊(とい)の寇」の例をあげれば十分だ。日本史教科書にはあまりは出ないがさすが最近、ウィキには簡潔な紹介がある。以下、ポイントのみ。

平和ボケの平安後期、西暦1019年、靺鞨女真系約3000人50隻の船が対馬に来襲、放火殺人略奪し、殺害されたもの36人、連行されたもの346人(うち男102人、女・子供244人)。ついで壱岐を襲撃、殺害された者365人、拉致された者1,289人、牛馬380頭、破壊家屋45棟以上、女子供の被害が目立ち、壱岐島で残りとどまった住民は35人に過ぎなかった。その後、九州にも上陸したが、博多でようやく撃退、刀伊は引き上げていったらしい。

刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近が逃亡に成功、高麗に逃れ、高麗軍が刀伊と戦い撃退したこと、そのとき日本人捕虜300人を救出したこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったこと、などの情報を得、これにより日本側でも状況を知り記録に残ることになった。

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刀伊の寇は、今から1000年前の話だが、さらにその1000年前、紀元1世紀に同様なことが起きてもおかしくはない。このころ、北九州から弁韓あたりは経済圏として盤石で防衛力もあったのに対し、出雲あたりは繁栄のわりに海からの第三者侵略に対して甘かったことは考えられる。当時、新羅(辰韓)の北には靺鞨系「濊」が大勢力を誇り南下圧力を強めており、その一部勢力が、抵抗力ある新羅・弁韓・北部九州を避け、出雲あたりに侵略したことは十分ありそうな話。

なにより前記事とおり、崇神垂仁紀の描写を見るに、比較的民族や文化も近かった新羅や弁韓(大加羅)系の人びととは考えにくく、もっと乱暴な北方遊牧民軍事集団による侵略があった、と見た方がいい。かつて騎馬民族征服説があったが、ここはもっと早い時期1世紀ころ、突破口は北九州でなく出雲あたり、馬は伴わず小規模だがまさにバイキングのように武力侵攻、既存勢力と同盟したり戦ったりしながら、数世代の短い期間で、出雲を橋頭保とし但馬丹波越をも席捲、同時に吉備(+但馬若狭?)から近畿中央に流れ込んだ人々がいた、と想像する。遊牧民だから土地に拘らずより繁栄している地方を(いうことを聞かない地方の大ボスのみを排除することで)次々と征服していった、これが崇神垂仁紀の大元だ。

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