広開土王碑文を読む

便利な時代です、中文ウィキソースより↓、抜粋。試訳意訳です。

https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%9C%8B%E5%B2%A1%E4%B8%8A%E5%BB%A3%E9%96%8B%E5%9C%9F%E5%A2%83%E5%B9%B3%E5%AE%89%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91

QT百殘、新羅舊是屬民,由來朝貢,而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民。以六年丙申,王躬率水軍討利殘國軍□□。首攻取壹八城、臼模盧城、各模盧城、幹弓利城、□□城、閣彌城、牟盧城、彌沙城、□舍鳥城、阿旦城、古利城、□利城、雜彌城、奧利城、勾牟城、古模耶羅城、頁□城、□□城、分而能羅城場城、於利城、農賣城、豆奴城、沸□□利城、彌鄒城、也利城、大山韓城、掃加城敦拔城、□□□城、婁實城、散那城、□婁城細城、牟婁城、弓婁城、蘇灰城、燕婁城、柝支利城、巖門至城、林城、□□城、□□城、□利城、就鄒城、□拔城、古牟婁城、閨奴城、貫奴城、豐穰城、□城、儒□羅城、仇天城、□□□□□其國城。賊不服氣,敢出百戰。王威赫怒渡阿利水遣刺迫城,橫□侵穴□便國城。百殘王困,逼獻出男女生白一千人,細布千匝,歸王自誓,從今以後,永為奴客。太王恩赦先迷之御,錄其後順之誠。於是得五十八城、村七百。將殘王弟並大臣十人,旋師還都。UNQT

百済・新羅はもとより高句麗の屬民となり由來朝貢してきていた。しかし,倭が辛卯年(391年)来り渡海して百済・□□新羅を破り臣民とした。

六年丙申(396年),王みずから水軍を率い百済國軍□□を討ち、18城を取った。臼模盧城、各模盧城、幹弓利城、□□城、閣彌城、牟盧城、彌沙城、□舍鳥城、阿旦城、古利城、□利城、雜彌城、奧利城、勾牟城、古模耶羅城、頁□城、□□城である。これを整理再編して?以下の30余城とした。利城、農賣城、豆奴城、沸□□利城、彌鄒城、也利城、大山韓城、掃加城敦拔城、□□□城、婁實城、散那城、□婁城細城、牟婁城、弓婁城、蘇灰城、燕婁城、柝支利城、巖門至城、林城、□□城、□□城、□利城、就鄒城、□拔城、古牟婁城、閨奴城、貫奴城、豐穰城、□城、儒□羅城、仇天城、□□□□□其國城。

賊ども(百済や倭)は不服氣で敢えて何度も戰いを挑んできた。(広開土)王は威赫怒り阿利水を渡り刺迫城に軍を遣り,橫□から□便國城を攻めた。百済王は困り男女一千人と細布千匝を献上し広開土王に帰する、今後長く奴客(人質)になると自誓した。(広開)太王は迷ったが記録し許した。こうして百済から五十八城、村七百を得た。百済王弟と大臣十人は軍を旋して都に還った。

QT八年戊戌,教遣偏師觀帛慎土谷。因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人,自此以來朝貢論事。九年己亥,百殘違誓與倭和通。王巡下平穰,而新羅遣使白王云,倭人滿其國境,潰破城池,以奴客為民,歸王請命。太王恩後稱其忠誠,時遣使還,告以□訴。十年庚子,教遣步騎五萬,往救新羅,從男居城至新羅城,倭滿其中。官兵方至,倭賊退□□□□□□□□來背息,追至任那加羅,從拔城,城即歸服。安羅人戍兵拔新羅城,□城。倭滿,倭潰城大□□□□□□□□□□□□□□□□□九盡臣有尖安羅人戍兵滿□□□□其□□□□□□□言□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□以隨□。安羅人戍兵昔新羅,安錦未有身來朝貢□。國岡上廣開土境好太王□□□□寐錦□□僕句□□□□朝貢。十四年甲辰而倭不軌,侵入帶方界□□□□□,石城□連船□□□王躬率□□從平穰□□□鋒相遇,王幢要截盪刺,倭寇潰敗,斬殺無數。UNQT

八年戊戌(399年),人を新羅に派遣して?教導し、新羅城加太羅谷?の男女三百餘人を得た,こうして新羅からの朝貢も論ずることとなった。

九年己亥(400年),百済は誓約を違り倭と和通した。(広開土)王は南下して百済を帰順させ?、さらに新羅に人を遣って新羅王にいうに「倭人は新羅國境に満ち溢れ城池を破壊し奴隷流民を民にしている。広開土王に歸順し命令を請え」と。太王は温情を示した上でその忠誠を稱え、遣使を引き還らせその□訴えを報告とした。

十年庚子(401年),広開土王は步騎五萬を派遣して新羅を救済したが,男居城から新羅城に至るまで倭はそこら中に満ち溢れていた。高句麗軍が攻め倭軍は撤退し□□□□□□□□來背息?,追撃して任那加羅に到り城を抜き,城は歸服した。安羅人軍隊は新羅城や□城を抜いた。倭は滿ち,倭は城を潰し大□□□□□□□□□□□□□□□□□九盡臣有尖?安羅人軍隊も滿ち溢れ□□□□其□□□□□□□言□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□以隨□。・・安羅人軍隊はもともと新羅で安錦未有身?は朝貢□して来た。國岡上廣開土境好太王のところにも□□□□寐錦□□僕句□□□□朝貢してきた?。

十四年甲辰(405年)倭は相変わらず不軌,侵入して帶方界□□□□□,石城□連船□□□?王躬ら率いて□□從平穰□□□鋒相遇,王幢要截盪刺,?倭寇は潰敗し斬殺は無數になり(大勝した?)。

QT十七年丁未,教遣步騎五萬,□□□□□□□□□城□□合戰,斬殺湯盡所稚鎧鉀一萬餘,領軍資器械不可勝數。還破沙溝城、婁城、還住城、□□□□□□那□城。廿年庚戌,東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢,王躬率往討,軍到餘城,而餘城國駢□□□□□□那□□王恩晉虛。於是旋還。又其慕化隨官來者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧□立婁鴨盧肅斯舍鴨盧□□□鴨盧。UNQT

十七年丁未(408年),(広開土王は)步騎五萬を派遣し□□□□□□□□□城□□合戰し斬殺湯盡し鎧鉀一萬餘と領軍資器械數得きれないほど得た。還って沙溝城、婁城、還って住城、□□□□□□那□城を落とした。

廿年庚戌(413年),東夫餘もとの鄒牟王屬民の中に謀叛し不貢のものがったので王躬ら率いて往って討った,軍は餘城に到りさらに駢□□□□□□那□□王恩晉虛?。

こうして各地に巡戦凱旋し、其慕化隨官來者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧□立婁鴨盧肅斯舍鴨盧□□□鴨盧?。

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広開土王は、燕や契丹とも戦争しているが、この碑は朝鮮半島のことに絞って(息子長寿王が顕彰し)書いていると読む。408年の5万は大変な数字で城名を見ると朝鮮ではないとも見えるが、還って、とあるから、大勝は百済や倭・安羅らが相手だったのだろう。それにしても欠字が多いのは残念。

確かに広開土王は任那加羅まで攻め入ったことはあったが、倭軍はむしろ新羅や弁辰に満ち溢れているようで、広開土王の時代、南朝鮮は倭の強い影響下にあった、と読むべきでしょう。広開土王碑は息子長寿王による同時代資料です、多少の脚色はあるにしても大筋は、何百年も後に当時の王朝の意図するところによって書かれた三国史記や記紀より、優先して読んでいいでしょう。

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