白村江戦の真相、続

承前。旧唐書によると、白村江大勝には唐新羅陸軍は間に合わず、劉仁軌と扶余隆率いる水軍が合流地周留に赴く途中、たまたま倭水軍と遭遇し「四戦して皆勝ち敵船四百艘大破燃え上がり血の海になった」大勝、問わず語りに「劉仁軌のお手柄」と読めるようになっている。がこれは大いに疑わしいと前記事で書いた。

そうなると、もう一つの原典「紀」はどう書いているか、前記事冒頭紹介の天智紀2年条、少し前後も合わせ再掲、訳文解説とともに以下。

秋八月壬午朔甲午、新羅、以百濟王斬己良將、謀直入國先取州柔。於是、百濟知賊所計、謂諸將曰、今聞、大日本國之救將廬原君臣、率健兒萬餘、正當越海而至。願、諸將軍等應預圖之。我欲自往待饗白村。

【訳】(663年)8月甲午13日、百済王豊章が良将(福信)を斬ったと知った新羅は(攻め時と)州柔(周留)城に向かったとの情報を得た百済王豊章は「廬原将軍1万余の援軍が渡海してくる、諸将はこれを踏まえて準備されたい、自らは(州柔城をでて)白村(江)で将軍を待ち接待したい」と。

⇒【解説】紀によれば、同年3月に計2万7千人の倭軍(前軍上毛野・間人将軍、中軍巨勢・三輪、後軍阿倍・大宅)を派遣、上毛野軍は百済南部で戦闘中、残り大部分は州柔城下の白村江に集結。さらに廬原1万援軍がくるので接待するといって(口実?に)豊章は倭軍に合流した。周留籠城組からは福信を斬った直後の敵前逃亡に見えたかも・・。

戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得𢌞旋。朴市田來津、仰天而誓・切齒而嗔、殺數十人、於焉戰死。是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗。

【訳】戊戌17日、賊將が州柔(周留)に到着、王城(周留城)を囲んだ。(他方)唐の水軍170艘が白村江に陣立てしていた。戊申27日倭水軍の初めに到着した一軍と唐の水軍が戦闘、倭は不利で退いた、唐軍は陣を堅め守った。己酉28日、倭の将軍と百済王豊章は状況を見極めもせず口々に「先手を取れば敵はおのずと引くだろう」と、そして陣形乱れたままの中軍を、守り堅い唐軍にぶつけた。唐軍は巧みに左右から船を挟み囲んできた。あっという間に倭軍は敗れた。海中に落ち溺死するもの多数、船は向きを変えることさえできなかった。朴市田來津(エチノタクツ、豊章と行動を共にしていた百済守護、近江エチの秦一族)は天を仰いで誓い歯噛みし怒り数十人を殺したがついに戦死した。この時、百済王豊章は数人と共に船に乗って高句麗に逃げ去った。

⇒【解説】17日に(旧唐書のいう)唐新羅連合軍、孫仁師・劉仁願と新羅王金法敏(文武王)らが到着して周留城を囲繞した。川を(錦江、熊津江から白江を経て)下ってきた劉仁軌と扶余隆の水軍と兵糧船はどうなったか、記述は紀にはない。孫仁師は熊津道行軍総管かつ唐水軍長だから早々に唐水軍に乗り移ったか、あるいは唐新羅周留城包囲軍本陣に陣取っていたか不明。しかし紀による限り、陸海そろって堂々対峙したようだ。旧唐書がほのめかす仁軌と隆の川下り船団がたまたま倭水軍と遭遇したわけでは決してない。倭軍のようすからすると28日には4百艘から千艘(百済軍も合わせて)の規模(一船に50人とすれば2万から5万人規模、なお唐軍は170隻7千人)、数を頼んで押し切ってしまえ戦術だったのか。でコテンパンに負け、溺死多数、とはあるが火で死んだ記録はない。ここも旧唐書の「四百隻炎上、天は煙と炎で漲り海水は皆赤」は嘘っぽい。皮肉な言い方をすれば旧唐書と紀で一致するのは(倭大敗はともかく早々に)扶余豊(章)高句麗逃亡の1点だけ、こうなるとかえって怪しく、やはり寝業師劉仁軌の大工作を疑っていいのである。

九月辛亥朔丁巳、百濟州柔城、始降於唐。是時、國人相謂之曰「州柔降矣、事无奈何。百濟之名絶于今日、丘墓之所、豈能復往。但可往於弖禮城、會日本軍將等、相謀事機所要。」遂教本在枕服岐城之妻子等、令知去國之心。辛酉發途於牟弖、癸亥至弖禮。甲戌、日本船師及佐平余自信・達率木素貴子・谷那晉首・憶禮福留、幷國民等至於弖禮城。明日、發船始向日本。

【訳】9月丁巳7日、(長く抵抗拠点だった)百済州柔(周留)城は始めて唐に降った。この時百済の人々はお互い語らって「州柔は降ちた。もうどうしようもない、百済の名は今日で絶える、墳墓にも行き来出来ない。弖禮(テレ、南海島)城に行き倭の将軍たちに会って事機(コトハカリ)の要を相談するまでだ。」と。遂に先に枕服岐(シンプクキ、康津か同福)城に置いてきた妻子らに百済を去る心を言い聞かせた。辛酉11日人々は牟弖(ムテ、南平か)を発ち、癸亥13日弖禮に到着。甲戌24日日本水軍と佐平余自信・達率木素貴子・谷那晉首・憶禮福留、併せて百済の国民等は弖禮に集結、翌日25日、始めて日本に向かった。

⇒【解説】白村江海戦の10日後に周留城が下ったと。城攻め戦があったという記事は(各国史書)どこにもなくおそらくは、劉仁軌あたりが動いて倭援軍海戦大敗の後交渉に入り、倭軍撤退と周留城明け渡しなど決めた。責任者というべき百済王豊章は逃亡したことにし武装解除もせず王族貴族人々が倭に亡命させることなど。紀の文章では亡命引揚者はわずかにも見えるが、地名を追うと錦江栄山江蟾津江に及んでおり、またその後天武持統紀に至るまで百済貴人多数に位身分を与えているから、全体で数万規模だった可能性もある(軍船なら定数50人程度、遣唐使船で百人余、引揚船なら百人強乗せたろう。)豊章や倭軍の側も緒戦大勝すれば別だろうが、緒戦大敗なら代替案=亡命引揚に切り替えることを早くから想定していたようにも見える。

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ちゃんとした敗戦なら、責任者処罰唐への連行・武装解除・捕虜交換などありそうなものだが、一切ない。

なし崩し的な休戦撤退、ただし部分的でなく、唐劉仁軌劉仁願などトップクラス・新羅王・百済新旧王子(唐側の隆や倭側の豊章)・百済と倭の現場トップたち間の休戦撤退協定だった可能性が高い。唐中央や倭天智天皇の承認を得たものかどうかは怪しく双方現場限りの判断だった臭いが強い。

三国史記金庾信列伝663年条に「8月13日に新羅文武王・唐劉仁願軍が豆率(ここにのみ登場、=周留=州柔)城に到着、百済軍は倭軍と共に出てきたが力戦して破った(岸辺の騎馬隊同士の戦いとみる、既述)ので、百済軍倭軍は皆降伏、とあり、その時の新羅王が倭人に言ったこととして「思うに新羅と倭国は友好で使節往来もしていたのに、どうして今日百済と組んで悪事を働き新羅を滅ぼそうとするのか。今倭の兵士たちは、わが手の内にあるが、殺すに忍びない。汝らは帰国して倭の国王にこのことを告げよ」といい、彼らが行きたいところに行かせた。」とも書く

戦争捕虜はいたようだ。身分高そうな筑紫君薩夜麻(サツヤマ)から一兵卒(軍丁)筑後国の大伴部博麻まで、唐に連行抑留されたらしい。665年高宗泰山封禅に仁軌自ら新羅百済耽羅倭の首領を伴ったというから薩夜麻らだった可能性が強い。それでも当時の唐はおおらかで早々に釈放され、唐土で遣唐使らとの交流もできたらしい、また大伴部博麻は自らを売って幹部の帰国費用にあてたなど美談として伝わっている(薩夜麻帰国は671年、博麻の帰国は690年、持統より恩賜、紀持統紀4年条)。

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