百済本紀にみる百済・倭交渉史(2)

674.675.百済本紀にみる百済・倭交渉史、

 承前。

(4)高句麗に圧される百済は、中国北朝・南朝に朝貢するも当てにならず、397年には倭国と国交し、百済・新羅・倭の同盟で高句麗に対抗。しかし、470年頃には倭の勢力も衰え、475年には漢城(ソウル)から南に熊津に遷都。この後は、倭も当てにならず、新羅と同盟しながら対高句麗戦を凌ぐ。国としては著しく疲弊、なお(逃避先候補だろう)南海の済州島を傘下に入れるのはこの頃らしい。


397年 倭国と好(国交)を結び、太子腆支を人質とする。

(前記事)


405年 百済王逝去の後、腆支の弟たちによる継承争い、末弟が次兄を殺し王位につくが、(倭の援助もあり倭の人質だった)太子腆支が即位。

406年 晋に朝貢。

409年 倭国より夜明珠が届く、倭の使者を王は厚く礼遇した。

416年 東晋が百済王を「使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王」に冊命。

417年 東部北部を動員し沙口城を築く。

418年 倭に使者を派遣、白綿(紬)10匹を送る。
428年 倭の使者来訪、従者は50人。

429年 宋に朝貢。430年 宋は先王の爵号(416年)を冊命・授与。

433年 新羅と国交。434年 良馬2頭と白鷹を新羅に、新羅からは良金と明珠。

440年 宋に朝貢。

447年 旱魃で新羅に民が流出。

469年 高句麗に出兵、北は青木嶺を回復。

472年 北魏に朝貢、上表文の内容は、高句麗の非を訴えるが、高句麗も北魏に朝貢しており効果なし。王は怒って北魏朝貢を取りやめる。

475年 高句麗長寿王3万を率い、百済の漢城を包囲、百済王蓋鹵王(がいろ)は戦死。敗戦。
⇒ここでも一度滅びている。

475年 新羅に救援を求めて援兵1万を得て帰国した蓋鹵王の子、文周(汶洲)が即位。王都を熊津(ゆうしん、忠南公州郡)に移す。

⇒日本書紀によれば、雄略天皇21年「久麻那利(熊津)」を汶洲王に賜り百済国を救う*、とある。十分ありうると思う。

476年 宋に朝貢しようとするも高句麗により妨げられできず。

476年 耽羅国(済州道)を得る。

484年 南斉が高句麗長寿王を驃騎大将軍に冊命したことを聞き、使者を派遣し上表して内属を願い出て許された。
⇒『南斉書』480年に高句麗長寿王を「高麗王楽浪公、驃騎大将軍」とす;一方『南史』や『冊府元亀』には480年百済王を「鎮東大将軍」とす;と注記。

484年 南斉に朝貢派遣するも高句麗に妨害される。
485年 使者を新羅に派遣。
486年 南斉に朝貢する。
488年 北魏が百済討伐に来襲するも撃退。

491年 餓えて新羅に逃げるもの600余家。

493年 新羅に結婚要請、新羅は伊サンの比智の娘を嫁がせてきた。

494年 高句麗と新羅が薩水(忠北槐山郡か)で戦闘、新羅の不利を百済が派兵して新羅を救った。

495年 高句麗が侵入、雉壌城を包囲、新羅に救援要請し新羅の救援を得て高句麗を撃退。
⇒400~475年頃までの新羅は、北部はどんどん高句麗に食われ逃げるように南下、高句麗に内属するなど南斉に言ったり本意でなく、実態は倭の勢力下、とみる。

(5)日本書紀でも有名な、武寧王(斯摩王)・聖明王以下の時代だ。高句麗の最盛期も475年(百済が熊津に王都を移す)頃。この頃以降倭も勢力を著しく落とし、他方新羅が徐々に力をつけてくる、中国も北斉・北周・陳⇒隋の統一と向かう中で、さすがの高句麗も孤立化を恐れ始め、高句麗は少しずつ百済そして倭との関係改善をも図ることになる。


501年 百済内の反乱を押さえた上で武寧王即位。

501年、502年 百済から高句麗に反攻、503、507、512年高句麗と戦闘。

512年 南梁に朝貢する(も受けられず)。
521年 しきりに高句麗を破ったといいこの年になって初めて通交を許され、南梁が百済王を「行都督・百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王」に冊命。

523年 漢城(ソウル)に行幸、バイ水で高句麗軍と戦闘
⇒この頃までにはある程度北部を回復したようだ。

524年 南梁が聖明王を「持節・都督・百済諸軍事・すい東将軍・百済王」に冊命。

525年 新羅と国交。

529年 高句麗と五谷(黄海瑞興郡)会戦、百済敗北。

538年 王都を泗?(所夫里)に移す、国名を南扶余とする。

541年 南梁に朝貢、毛詩博士・涅槃経など経論・工匠・画士などを下賜される。⇒聖明王時代の仏教文化関係の記事はこれだけである。 

548年 高句麗がわいと共謀して漢江北の独山城を攻略、新羅軍がこれを破る。

553年 新羅が結局、百済の東北辺境部を得て、新州を置いた。
553年 百済王女が新羅王に嫁す。
554年 聖明王、新羅に攻撃するも、狗川(忠北沃川郡)にて新羅軍に殺された。
 
554年 高句麗が大挙して、熊川城に来襲。
561年 新羅と交戦、敗北。

567年 南陳に朝貢
570年 北斉から「使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王」を得る。
572年 北斉に朝貢。
577年 南陳に朝貢。北周宇文周に朝貢。
581年 隋に朝貢。「上開府・儀同三司・帯方郡公」に冊命。この後も隋に朝貢を繰り返す。

598年 隋が高句麗討伐を興したと聞き、先導を申し出るも、隋は高句麗を許したとし、これを知った高句麗が百済を攻める。

602年 新羅の阿莫山(全北南原郡)に、新羅と交戦、百済は敗北。
607年 高句麗が松山城・石頭城に来襲、百済は敗北。

607、608、611年 隋に朝貢し、高句麗討伐を願いでる。
612年 隋軍が遼河を渡り高句麗討伐、国境に集結。「百済は両股をかけていた。」
⇒これ以上隋の高句麗討伐戦の記事は百済本紀にはない。

616年~636年 頻繁に新羅と交戦記事。頻繁に唐へ朝貢。

627年 唐は百済・新羅・高句麗いずれからも朝貢あり、「好隣の情を篤くし直ちに戦争をやめよ」と唐の太宗の璽書を賜る。しかし「実際には昔どおりの仇敵関係にあった。」


(6)長寿王の死後西暦500年頃から隋・唐成立までの約百年余、高句麗と倭の脅威が弱まり、百済も新羅と並んで安定・発展したように見える。両国とも国家仏教の貢献もあろうが、新羅がどちらかといえば後進で倭に真似て軍事力で繁栄するのに対し、百済は先進・中国寄り?外交力の巧みさで力をつける。新羅の脅威に対し、百済は高句麗・倭に接近する。倭の外交方針はよくわからないが、継体朝には応神雄略時代の求心力はなく半島南部の失地回復に熱をあげるがついぞまともな成果を上げないまま百済敗戦・白村江敗北で完全に半島から排除される。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?