百済の南下

雄略死後倭も大混乱し半島南部への影響力は急速に低下、こうした中、百済は新羅と同盟を結び高句麗に対抗、他方で空白化した全羅道や任那に勢力を伸ばす。百済東城王(在位479-501年)が高句麗に大勝後南斉に対し495年全羅道の邁羅王弗中侯らに王侯位を認めるよう要求、また498年耽羅(済州島)親征のため武珍州(全南光州市)に入る。武寧王(在位501-523)の521年には南朝梁に遣使し高句麗から漢城も一時取り戻しまた新羅より文化国と主張し、かつての大将軍・百済諸軍事・百済王のタイトルを回復するまでなった。

紀では仏教公伝で有名な聖明王(在位523-554年、武寧王の長子)の時代、高句麗がまた勢いを増し529年には五谷(黄海道瑞興)で聖明王は大敗、以後じり貧となり538年には都を熊津からさらに錦江下流の扶余(シヒ)に移し防衛と統治の強化を図るが、高句麗と新羅の圧迫を食い止めることはできず551年には漢城を新羅に取られ漢江流域を失い、554年には高句麗新羅連合軍に敗れ聖明王は戦死する。

この間三国史記は倭の関与を殆ど全く記述しないが、紀は特に継体(在位507?-531年)紀・欽明(531?-571年)紀の記述の7ー8割を任那4県割譲任那復興にあてる。こういっては何だが、半島南部一地方の出来事を微細に書く、が口先ばかりで結局軍を送ることさえできない。もちろん紀編纂時の亡国百済系史官たちの独特の主張=百済はイイモノ新羅ワルモノの一環なのだが、その新羅を憎む文章は度を超えてお粗末。12世紀三国史記編纂の金富ショクたちもここも読み記述の具体性からウソではないにしても結果何も起こらず、とくにその悪文から(もちろん愛国心から、さらにその前倭の五王と朝鮮支配について記紀自体が否定的であることが主たる理由だが、既述)とても採用する気になれなかったと読んでおく。

西暦500年前後東城王・武寧王の一時期、百済は強勢を取り戻したが、聖明王戦死の後は鳴かず飛ばず高句麗新羅と競り合って勝てず、半島南西のおそらくは10万戸程度の小国として命脈を保っただけ。三国史記は中国斉梁周陳隋歴代王朝への朝貢を記すが果たして王号を保てたかどうかさえ怪しく、実態はその外交力を通じて中国と倭に高句麗と新羅の悪口を訴えつつ縋り付くように生きていたとみる。三国史記は無視したが、倭との関係も紀継体以降の任那記事や百済外交記事の方がはるかに実態に近いと読む。

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