聖帝仁徳と大悪天皇雄略

【戦争を書かない記紀】

応神朝は半島に勢力を伸ばした画期的時代なのに記紀ともに半島進出に殆ど触れないのは、記紀編纂時の国際情勢=唐帝国中華統一/白村江敗戦/百済滅亡があり半島や大陸に野心があるように見せたくなかったから、また戦争はこりごり/戦争大嫌いという持統らのやや女性的感覚があったから、と読んだ。

【好色な?仁徳・雄略】

紀本文で仁徳は「聖帝」、雄略は「大悪天皇」で、真反対なのに、他の倭王にまして女の尻を追っかけ回した二人とも書く。春秋の筆法を真似たのかせっかく聖帝や大悪と評しながら、その分印象弱い文章となっている。大悪雄略ならまだしも聖帝仁徳もそうだったというのは面白い。しかも皇后磐之媛は「嫉妬甚多」(記)で愛妾たちをろくに守れない情けない男として仁徳を書く。どうして聖帝仁徳紀でこんなことを書くのか?・・記紀本文何度も読み返したが、

ここは記紀作者の想定(というより忖度?)読者に持統・元明や橘三千代ら(記紀編纂時の女帝女傑たち)を加えない、と理解できない。人々が良い天皇といおうが悪い天皇といおうが天皇が男であっては、仮に皇后であっても女の苦しみは止まない、みずから天皇になること、これが女が(男女の)苦しみから逃れる唯一の道との主張だ、と読む。新羅日本では古くから女帝OKだが唐でもようやく女帝則天武が登場したこの時、今日われわれ以上に、時代の「女性上位の心意気」を感ずる。

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【聖帝/大悪の意味?】

竈の煙に3年課役免除は中国古典のパクリで史実か疑わしいが、応神/広開土王時代の緊張の戦時に対し、応神後期仁徳/長寿王前半は「平和の配当」の時代で、インフラが整備され国力も一段と上がった時代だった。また百済(や新羅)への圧迫の程度も弱まり、半島南部から倭全域にかけて「仁徳は聖帝」と呼べる存在だった。

雄略を「大悪」天皇とすることには古くから異論もあったようで、万葉集・日本霊異記などでは強権的だが偉大な英雄像のほうが強い。記紀でもこのあとに武烈天皇という残虐刑を好み妊婦の腹を裂いたという悪逆非道な王を紹介するわけで、雄略を「大悪」とまでした理由がよく分からない。

この辺はやはり旧百済系の歴史認識を反映したもの、すなわち450年頃から長寿王が南下策に転じ雄略時代は戦乱続きとなり475年百済は漢城を失い倭の協力を得て熊津遷都するわけで倭としては感謝されるべきところだが、紀編纂の亡国百済人には雄略の暴力と収奪は半島でひときわスザマシかったとの記憶があり憎き雄略との伝承があって、これを百済系史官たちが雄略紀に書き込んでしまった、というところ。・・これも今日の歴史認識齟齬問題に通底する。

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【襲津彦が応神の父?】

なお、葛城氏について。仁徳皇后(葛城)磐之媛は臣下皇后の初めとされるが、記紀が書く襲津彦の傍若無人ぶりからして応神の父である可能性大。神功は正式に夫を名乗らせなかったものの、最大限厚遇したはずでその一族郎党を襲国から移動させ奈良盆地の南西に盤踞させ事実上王族と遇した。磐之媛は襲津彦娘というから甥叔母婚、王族同士である。磐之媛の嫉妬深さ仁徳さえ蔑ろのスザマシさが通用したのもこう考えるべき。

持統は自分を重ねてみたはずで、天智や天武の愛妾たちには相当苦しみ、皇后でもこんな思いをするのだから、いっそ天皇は女、少なくとも男盛りの男はやめてカワイイ子や孫たるべし、と神功応神朝のお話を聞きながら、思ったに違いない・・。

また記紀雄略の「葛城山の一言主」との不思議な逸話も、応神朝開祖の襲津彦と出会った話と読むと理解しやすい。


以上、雑駁ながら備忘まで。

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