白村江戦の真相

白村江海戦惨敗は日本なら子供でも知る史実だが、この原典を訪ねると案外心もとない。原典は次の2か所、と言っていい。

一つ。「旧唐書」劉仁軌伝(列伝巻84)の「於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船,自熊津江往白江,會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙焰漲天,海水皆赤,賊眾大潰。餘豐脫身而走,獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠誌等,率士女及倭眾並耽羅國使,一時並降。百濟諸城,皆復歸順。賊帥遲受信據任存城不降。」の150字ばかり、

二つ。「紀」天智紀2年8月条「戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得𢌞旋。朴市田來津、仰天而誓・切齒而嗔、殺數十人、於焉戰死。是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗。」の200字足らず。

新唐書や資治通鑑ほか中国史書はこの2書を根拠にしている。朝鮮三国史記は百済本紀義慈王20年(660年いわゆる百済滅亡時)に「熊津口で新羅軍と4度戦って4回勝つが(百済は)最終的には負け、唐の水軍と蘇定方軍に攻め上げられ負け1万を失い義慈王と子らは(泗沘)城を捨てて逃げたが捕まった」と似た記事があるが、663年白村江戦は明らかに旧唐書記事の丸写しで独自記事はない、また新羅本紀663年条も新旧唐書に基づく記事はあるが不思議なことに白村江戦記事は一切引用していない。また新羅本紀文武王11年条(671年)に新羅王が当時の唐軍行軍総管薛仁貴にあてた返書中、8年前663年を振り返っての記事に「唐軍総管孫仁師が新羅軍と共に周留城下に来た時、倭国の兵船が百済を救援に来た。倭船は千艘もいて白沙に停泊し百済の精鋭な騎馬隊がその岸辺で船団を守っていた。新羅の強力な騎馬隊が唐軍の先鋒となってまず岸辺の陣地を撃破した。周留城は落胆してついに降伏した」としここにも白村江戦の話はない。400艘の倭船が燃え海が血に染まったというならもう少し記事があってもよさそうなのに一切ない。

旧唐書本紀(高宗本紀)は淵蓋蘇文・金春秋(武烈王)・義慈王の帰趨は書くが倭の参戦敗戦は書かず、上記劉仁軌列伝とこれに基づく東夷伝で触れるにとどまる。おそらく、当時の劉仁軌(と劉仁願の高宗宛)戦勝報告書が中国史書記述の大元と想像していい。

唐新羅軍の対百済倭戦勝そのものは疑う余地はないが、倭水軍がどの程度負けたのかは、ふつうありそうにない紀自らの惨敗記録以外(参加した倭将軍の家伝や記録でもあればいいのだがこれも天智天武の焚書禁書あって現伝しない)ない。信頼に足る第三者の記録が全く見当たらないのである。

劉仁軌は高宗武后時代の(軍人と本人はアピールするが)政治家。高宗本紀初出は乾封元年(666年)7月で「大司憲兼檢校右中護劉仁軌兼右相」とありまさに百済滅亡や白村江戦「圧勝」の功によって世に出、668年李勣高句麗討伐に副将、674年には鶏林道大総管(新羅方面司令官)として新羅に「大勝」し、この後尚書左僕射や太子太傅や監修國史に上り詰め、84歳で現役のまま685年死に高宗乾稜に陪葬された、という。不思議なことにこの人が戦場に登場すると奇跡のようなことが起きる;一つは白村江戦圧勝し粘っていた百済残余勢力が壊滅したこと、二つは猛抵抗をした百済猛将黑歯常之が仁軌説得で唐に帰順し唐将軍となったこと。三つはもっとも不思議で、674年仁軌が大勝したはずの新羅がわずか2年後676年伎伐浦で唐軍を破り事実上旧百済領全域を支配、唐は同年中熊津都督府を遼東建安城に後退させ、唐には多くの左遷者がでるが劉仁軌は高宗の叱責を被ることもなく、順調に栄達していく。正史はその人柄などほめるが他に手品の種がありそうなのである。

ややこしい話だが新旧唐書による劉仁軌伝にもう少しお付き合いいただく。始まりは顕慶5年(660年)遼東征伐において漕運に失敗した罪を(賄賂で有名な武后権臣)李義府に着せられ、劉仁軌59歳にして一兵卒に落とされたこと。同年蘇定方率いる唐軍が百済泗沘城を攻め劉仁願が義慈王を捕らえ百済を滅亡させる。が百済遺臣鬼室福信らが泗沘城の奪還を試み守将劉仁願は包囲兵糧攻めされる。足掛け3年にわたり劉仁願が泗沘城を死守するが、これを救ったのが自ら志願して百済倭軍を破り泗沘城を早期解放した劉仁軌。唐高宗は仁願を帰任(劉仁軌は熊津を守り羈縻政策として元百済王子扶余隆を熊津に迎える)慰労した際、褒められた仁願は百済獲得は仁願以上に仁軌の手柄といって好感を得た。

漕運に失敗した仁軌は白村江海戦「大勝利」で名誉挽回、足掛け3年泗沘城に唐兵一万新羅兵七千と籠城貫徹した仁願は援軍待たず早期解放した仁軌に感謝、またこれだけなら白村江で倭水軍に遭遇したのは扶余隆率いる現地水軍であった可能性も残り、要すれば、仁軌仁願扶余隆水軍倭水軍(扶余豊もいた可能性大)がツーカーで(孫仁師や新羅王軍から離れて見えないところで)「仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙焰漲天,海水皆赤,賊眾大潰。餘豐脫身而走,獲其寶劍。」を仕込んだ可能性もある。仁願が高宗面談時そんな話をしそんな内容の戦勝報告が記録され二人は褒められ好世論を得て、665年高宗の泰山封禅には仁軌自ら新羅百済耽羅倭4国首領を率いて参加し「高宗甚悅」、その後は「監修國史」として一連の自分の記録も守りえたとみると納得いくのである。高宗武后のこの時期、宮廷での権力闘争は落ち着きむしろお金と忖度さえ宮中に払えば東夷の戦争などどうとでも記録できたといって(旧唐書記録は賄賂ででっち上げ多いともいわれ、だからこそ新唐書が編纂された)過言ではない。

為念、中朝日で最近まで最も読まれた資治通鑑では該当部分、次の通り。

「九月,戊午,熊津道行军总管、右威卫将军孙仁师等破百济馀众及倭兵于白江,拔其周留城。初,刘仁愿、刘仁轨既克真岘城,诏孙仁师将兵浮海助之。百济王丰南引倭人以拒唐兵。仁师与仁愿、仁轨合兵,势大振。诸将以加林城水陆之冲,欲先攻之,仁轨曰:“加林险固,急攻则伤士卒,缓之则旷日持久。周留城,虏之巢穴,群凶所聚,除恶务本,宜先攻之,若克周留,诸城自下。”于是仁师、仁愿与新罗王法敏将陆军以进,仁轨与别将杜爽、抚馀隆将水军及粮船自熊津入白江,以会陆军,同趣周留城。遇倭兵于白江口,四战皆捷,焚其舟四百艘,烟炎灼天,海水皆赤。百济王丰脱身奔高丽,王子忠胜、忠志等帅众降,百济尽平,唯别帅迟受信据任存城,不下。」

簡体で読みにくいこともあるので、訳しておく。

「(663年)9月戊午熊津道行軍総管右威衛将軍孫仁師ら百済残党及び倭兵を白江に破り勘案の周留城を抜いた。初め,劉仁願と劉仁軌は真岘城で既に勝ったが,詔に従った孫仁師の唐将兵は海上にあってこれを助けた。百済王豊は南方に倭人を引き入れ唐兵と戦っていた。仁師と仁願と仁軌は兵をあわせ勢いは大いに振るった。諸将は水陸の要所、加林城を先に攻めたがったが、仁軌は“加林は堅固,急攻すれば士卒が消耗するし,緩やかにすれば持久戦となりわが方に不利。周留城こそ反乱軍の巢穴で悪者が集まっている、悪を除くのが肝心だ、これを先に攻撃し周留を落とせば諸城はおのずと下ってくる”といった。”こうして仁師・仁願・新羅王法敏は陸軍を率いて進軍,仁軌・杜爽・扶余隆は水軍および兵糧船を率いて熊津より白江に入り,陸軍と会合すべく周留城に向かった。白江口で倭兵と遭遇し四戦して皆な捷ち,その四百艘を焼いた,烟と炎は天を灼き,海水は皆赤くなった。百済王豊は脱出して高句麗に奔り,王子忠勝や忠志らは兵を率いて降伏した。百済はことごとく平らげられたが、ただ別帥遅受信のみは任存城にあって降伏しなかった。」

人口に膾炙した資治通鑑でも白村江海戦肝心のところは旧唐書から一歩も出ていない。杜爽という別将の情報は他になく(新羅本紀文武王11年7月条に杜大夫とあるが)あいまいさに変わりはない。さすがに資治通鑑になると孫仁師熊津道行軍総管、唐水軍に冒頭言及あるから誤解は生まれにくいが、旧唐書だけなら仁師は陸軍扱いで、劉仁軌・杜爽・扶余隆の合同水軍が倭の水軍を破ったようにさえ確かに見えるのである。

-----------------------------

で、真相に迫るもう一つの種は孫仁師関連、これが軽視されがちだが原典3つ目だ。実は、前年622年に劉仁願が高宗に援軍を求め、高宗はこれに応じ淄(山東省淄博市淄川區)青(山東省青州市)萊(山東省萊州市)海(江蘇省連雲港市海州區)の兵七千人を徴発し、7月には右威衛将軍孫仁師を回紇戦線から抜き熊津道行軍總管(百済方面司令官)に任命、海路熊津に向かい百済を討つよう詔している(新唐書巻3,220,資治通鑑巻200、唐高宗本紀662年)ことだ。

新唐書や資治通鑑は孫仁師こそ百済方面司令官であったことを明記しているが、旧唐書では孫仁師を右威衛将軍としかかかず、劉仁軌が上席であったように書く。また孫仁師は白村江戦時、新羅王とともに陸軍を率い熊津から悪の巣窟周留城に向かっていたように書く、だから、唐水軍7千人がどこにいたかも説明しない。この辺あわせると、

真相は、唐が662年に派遣した水軍7千人170艘が、白村江沖にすでに停泊、熊津からの兵糧船を待っていた、その副将こそ杜爽であり孫仁師水軍副将だった、とみるのがいい(孫仁師は総責任者として熊津に赴き軍議に参加し帰任途中)。ここまできて初めて、紀の記事や新羅本紀2か所の663年記事が嘘ではないとわかる。「唐戦船170隻すでに陣列を整えていた。陸の州柔(周留)城は唐新羅連合陸軍に囲まれていた。」(紀)。「倭船は千艘、浜辺に近く百済の騎馬兵が守っていたが、これをまず新羅騎馬兵が攻撃した」(新羅本紀)のである。

で、問題にしたいのは劉仁軌列伝=戦勝報告?の「四戰捷,焚其舟四百艘,煙焰漲天,海水皆赤」が本当かである。劉仁軌は、戦争というより交渉説得の人、夷蛮は禽獣だから滅して当然(孫仁師)というのではなく敵も忠孝の人間、お互い将兵の死傷は少なくしたい、早く帰還させたい、そしておそらく唐の基本となっていく羈縻政策(蛮族の自主性尊重)派だったとみる。それだけに、最初海軍が大勝した後は、早めに交渉に入り、倭軍が半島支援することの愚を説き(天智以外の倭将軍多くは本来慎重派だからすぐ乗り)、百済で総スカンを食った扶余豊の帰国も認め(旧唐書も紀も口裏を合わせこの時早々に高句麗に逃げたと書く)、百済王族貴族その他希望者の倭への逃亡亡命を認め、この事実を陸上周留城の百済残党に知らしめその心を折り一挙に壊滅した。ただし孫仁師には感謝したろうがあまり親しくもなく考え方も違ったのだろう、親しい劉仁願と打ち合わせ、勝利の栄冠を孫仁師から奪い取った、戦勝報告は大げさに「四戰捷,焚其舟四百艘,煙焰漲天,海水皆赤」とし、こののちの出世の糸口とした。要は白村江海戦の事実は緒戦大勝、その後はいかにも劉仁軌的寝技に持ち込んだ、もちろん相当なお金も動いた、と想像する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?