郭務悰とは何者か

承前。白村江敗戦後4度紀に登場するが何者で何のため来倭したかよくわからないとされる郭務悰についても、劉仁軌劉仁願の私的派遣で休戦撤退協定の義務(債務)履行を求めてやってきたと考えるとわかりいい。要するにお金、無事に百済王族貴族らが財産とともに倭に安住の地を得たのだから、その分け前を寄越せ、というにある。

紀から郭務悰関連記事を拾う。なお郭務悰の名は中国史書に一切現れない,この一点でも正史に乗るタイプでなく仁軌ないし仁願の私的スタッフ=謀臣私兵とみるべきだ。

【紀記事】664年(天智3年)5月17日百済鎮将劉仁願が朝散大夫郭務悰らを派遣して表函(手紙)と献物を進上した。・・10月1日郭務悰に勅が出た(内容不明)、同日に中臣内臣は僧智祥を遣して郭務悰に物を贈った。4日郭務悰らに饗応した。(同月淵蓋蘇文が死んだとの報告があり)12月12日に郭務悰らは帰国した。

⇒【解説】前年663年8月白村江大敗、9月百済遺民と共に倭軍帰国。そして例の劉仁願の使者として郭務悰ら翌664年5月に来訪、対して実に5か月後朝廷は返事した。紀は勅だったというが「善隣国宝記海外国記」は筑紫大宰の言葉として伝達したと。また紀は中臣内臣=鎌足が人を介してものを贈り饗応したと一言触れる。鎌足=見逃してやった百済側責任者豊章と郭務悰らに伝わっていたと読む。文章からして鎌足は顔も見せず天智の陰に隠れ接待させただけと読む。

なお「海外国記」は、664年4月郭務悰ら30人と百済佐平禰軍100人余が対馬に到着、倭国側は大山中采女通・僧智弁らを派遣、9月に津守吉祥・伊吉博徳・智弁らが筑紫大宰の言として「書状を見ると天子(唐の皇帝)からの使いではなく百済鎮将の私使であることが分かったので朝廷には奏上しなかった」とあり、使節団の入京も許さなかった。なお郭務悰はこの時劉仁願からの「牒書」を携えていたとも記す(内容不明)。郭務悰一行を在対馬筑紫のまま追い返したわけだ。郭務悰が納得したとも思わないが、紀の記事には淵蓋蘇文の死がわざわざ挟まっておりこの大ニュースがあって救われ彼らは一旦引き上げていったものと理解していい。なお同行した百済の禰軍という人は豊章と面識があったから連れてきたのだろうが上記通り豊章=鎌足はついに現れず、この点倭側はシラを切ったとみる。

紀はこの年664年に対馬壱岐筑紫国らに防人と狼煙を備え、筑紫に堤防を築き水を貯え水城つくり、翌年665年百済の官位を考慮し旧百済官人を高位につけた、旧百済人に長門や筑紫に城を築かせた、さらに耽羅とも同盟確認したと書く。そして次の郭務悰再来の記事につなぐ。

【紀記事】665年9月劉徳高を上席とし前年の郭務悰禰軍254人再来、筑紫で表函を提出、10月宇治で閲兵、11月饗宴。12月に劉徳高らに物を賜う、同月帰国と。「伊吉博徳書」には鎌足息子定恵がこの時唐より同行帰国したとある、鎌足に拘っており通常思う以上に意味がある。紀は是年条として守大石・坂合部磐積らを遣唐したと、劉徳高らの送使かと紀は割注。2年後の667年11月百済鎮将劉仁願、熊津都督府司馬法聡らを遣して坂合部磐積(紀は境部石積とかく)を筑紫に送り、司馬は逆に伊吉博徳ら送使を付けられて帰国した、と紀は書く。

⇒【解説】劉徳高の肩書は朝散大夫沂州司馬上柱國というよくわからぬもの、前年の郭務悰や禰軍をそのまま同行していることから、前年「私設」といわれて恰好つけたもの。倭国朝廷は今回は近畿に入れたが「閲兵」で迎えた、と書く。水城など防衛体制も見せ一戦する用意覚悟を示した。なお遣唐使(第5回)は郭務悰らの送使とか高宗封禅参加とかいわれるがそうではなく、やはり郭務悰ミッションの性格を疑ってその確認牽制が狙いだったと読む。

この時期高句麗や耽羅との外交関係を確認しており倭としては外交総力を挙げて「劉仁軌や劉仁願の脅迫巻上げに抵抗」、近畿には入れたが、この時も鎌足ら倭の高官は面談饗応していない、と見る。


時は唐高句麗戦最終戦(666-668年)に入り、李勣総管のもとで劉仁軌(副総管)も劉仁願(熊津都督府トップ)も動員されており、守や坂合部が仮に長安に向かったとしても途中で捕まり仁軌や仁願に預けられた可能性大。彼らの倭への要求は皇帝や李勣の耳には達していなかったにせよ、仁軌こそが本恐喝の黒幕、倭側には例の協定は今も生きていると知らせたに違いない。(やがて李勣の耳に入り、668年仁願が罪に問われるのもこうした倭恐喝や軍派遣が一因だったと推定する)

【紀記事】669年(天智8年)是歳条として河内直鯨遣唐使、高句麗征圧祝賀(新唐書にもあるから事実とみていい)。また是歳条最後に「大唐」郭務悰2千人遣す、と。むしろ是年重要なのは、669年秋藤原内大臣の家に落雷(霹靂)あり、10月10日に発病、天智自ら見舞い大織冠(ダイショッカン)と藤原姓を与え、鎌足「生則無務於軍國、死則何敢重難」と最後の言葉、辛酉16日に死んだ。50歳ないし56歳と紀割注。

【紀記事】671年(天智10年)1月百済鎮将劉仁願李守真らを遣し上表、6月百済より使者来訪、栗隈王を筑紫帥とす、李守真が百済使と共に罷帰る。このあと入れ替わるように郭務悰来倭。時は壬申の乱が始まる直前、大海人が出家吉野に入った記事の後、671年11月癸卯10日条に”對馬國司、遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。』”と。12月3日天智、近江宮で崩御。翌672年3月内小七位阿曇某を筑紫に遣し天智の死を郭務悰らに告げる、郭務悰ら喪服三遍挙哀東を向いて稽首。同3月郭務悰ようやく書函と進物を進上。5月甲冑弓矢・絁1672匹・布2852端・綿666斤を郭務悰らに与え5月30日郭務悰ら罷帰る。そして6月24日から7月23日壬申の乱、大海人が大友を討って天武勝利。

⇒【解説】紀は669年と671年の2度2千人を率いた郭務悰の来倭を書くが定説は669年記事は重複で671年のみと読むらしい。興味を引くのはいずれにせよ(鎌足=豊章の死あるいは)天智の死に遭って、筑紫から東に向かい哀哭したとあること。通説によれば天智の死ゆえとなるが、実は669年というのが史実で、百済王豊章と信じていた郭務悰らがその死を知ってこれ見よがしに3度哀哭したと読むのが至当。また鎌足の死の際、天智は豊章に与えたと同じ大織冠(史上この二人だけ)を与え、他方で藤原姓を与え百済豊章でないと再確認してみせた。対する鎌足最期の弁↑「生きいても軍国に何ら貢献できず、死ぬにあたって(郭務悰2千の兵がいよいよ唐を名乗って筑紫で恫喝している中)重い難題を残したままで申し訳ない」と読むべき。

要は倭側は強気で軍備を整えつつゼロ回答を続けた、しかし劉仁軌(仁願は668年に失脚、そのあとも2千派兵しているのだから仁軌こそ黒幕、このとき唐朝の新羅百済倭政策総責任者だから何とでもできた)は執拗に要求し続けた。それでも倭側は支払いを拒み続け、最後は甲冑弓矢・絁1672匹・布2852端・綿666斤で手を打たせたと(2千人動員してこれではいかにも割に合うまい)一の位まで書き残しているのは、倭側の勝利宣言、と読み取るべき。

いずれにせよ669年鎌足死に671年天智死に、この問題の倭側元凶二人は死んだ。この二人以外、大海人はじめ殆どの古族は二人の百済政策には冷淡だったし仁軌仁願のやくざの脅しのような要求は断固撥ねつけるべしだったに違いなくここは(おろおろ逃げ隠れする豊章や天智を支えて)大海人がシラを切り強く仕切っていったと読む。そして翌年壬申の乱で天武は天智勢力を破る、当時の筑紫栗隈王は一貫して天武支持だし、百済系貴族遺民も案外天智支持でなく天武支持も多い。天智鎌足親百済ラインは実は当時総スカン状況だった。天武への政権交代があり新羅との友好も回復、やがて仁軌も死んでこの話は自ずと立ち消え。・・ま、天智鎌足の失策というべきものを記紀改作で大きくひっくり返し偉大な天智と鎌足に変貌させたのが、持統不比等らの世代なのである。

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