紀の語る半島外交:三国等距離

百済聖明王が漢城を失い新羅に大敗(554年管山城の戦い、百済伽耶併せて29600の将兵が戦死したと新羅本紀)のあと、百済は10万戸程度の小国に逆戻り。対する新羅は漢(山)城や国原(旧中原、現忠州市)や大加羅金官東任那領有を確実なものとして30万戸程度。この時点で北方大国の高句麗は60万戸、南方の倭は(残余任那を含まず)70万戸程度、と推定*。

前記事通り管山城戦には倭は口先介入だけだが、聖明王戦死はショックだったようで百済滅亡と新羅覇権を恐れ、562年、新羅本紀のいう「伽耶反乱」=戦前日本史のいう「任那日本府滅亡」時には、倭もある程度出兵したが、結局一敗地にまみれた。

新羅の軍事強国ぶりを実際に体験したわけで、これを契機に倭は、継体欽明以来の百済偏重の外交を改め、聖徳太子時代を経て乙巳の変まで、基本は百済新羅高句麗「三国等距離外交」に変更する。

紀は戦後の人々が言うほどウソばかりでない、むしろ雄略以降は年号も含め倭という裏庭からみた当時の風景を書いている、という立場(もちろんバランスを欠いた記述や亡国百済系史官たちの卑しい文章はどうにもスカンが)から、三国等距離外交時代に向かう様子について、以下、紀より。

554年(欽明15年)聖明王が管山城戦で3万を失ったことは致命的、百済としては倭以外当てにする先なく王子恵を派遣して援軍を請い、倭も重い腰を上げて556年王子恵につけて阿閉・佐伯・播磨らの軍を派遣。倭として実際には戦争しなかったにせよ、牽制にはなったようで、新羅は漢城や新州の統治に専念、また高句麗も引き上げ、百済は小康を得て557年に兄王子昌が威徳王即位、と紀は書く。

560年(欽明21年)561年には新羅から遣使があったと紀は書くが、ここはこれまで国として認めることのなかった新羅を倭としても認知、そして新羅と520年以降取り込んだ大加羅や金官(いわば東任那)に関し倭の宗主国的地位を認めさせる形で調と称する上納金を得る仕組みを協議したのだと読む。こういう仕組み=譲歩?してしまえばもう簡単、561年新羅の使いは百済より下に置かれたという理由でケツをまくって帰国してしまい、翌

562年(欽明23年)残りの西任那(紀は10か国という)を新羅は獲得する。新羅本紀は百済侵攻と共に「伽耶が反乱を起こしたので将軍異斯夫・斯多含らに命じて鎮圧」と書き、紀は百済や任那軍に併せ「紀・河辺将軍を派遣して戦ったが、河辺将軍はその婦人を露地=公衆の面前で凌辱された」とまで書くから、ここで敗北したのは史実。それでも新羅としては倭から次々軍隊を送られてはかなわない、で、外交的に任那の「調」を上納することで倭とは休戦講和した、というところ。

同じ562年 紀は「大伴に命じて高句麗と一戦し一定の戦利品があった」とも書くが、これは史実とは考え難く、三国史記記述に併せれば、聖明王戦死の554年に「高句麗が熊川(熊津?)に迫ったが撃退した」と百済本紀・高句麗本紀にあるからこれが(聖明王死後かけつけた)大伴援軍だったのかもしれない。

いずれにせよ、このころから高句麗との往来を紀は書き始め、

565年(欽明26年)「高(句)麗人ツブリヤヘら、筑紫に投化(=渡来?)、山背に住まわせた」というから使者か移民か不明だがそれなりの人びとだったのだろうし、570年には「越に漂着した高麗の使者を丁重にもてなした」とあり、新羅の急拡大の中で、どちらが言い出したかはともかく、高句麗と倭の間で外交関係的なものがはじまったことは見て取れる。

欽明朝というと聖明王による仏教公伝と任那復興に熱心の印象が強いが、紀を改めて読むなら、それは国史学的思い込み読みにすぎず、実際には古くから支援してきた百済**がだらしなくも小国に堕し、やむなく、新羅や高句麗との(戦争ではなく)外交の道も国として模索、いわば三国等距離外交の始まりの時期と読むべきだ。

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*魏志東夷伝(280年頃の情報)では、馬韓10万余、辰韓弁韓併せて4ー5万戸、に対し、倭は奴国2万余、投馬国5万余、邪馬台国7万余戸とある。また旧唐書新唐書東夷伝には、高句麗滅亡時(668年)、高句麗5部176城69万7千戸とある。また当時の人口試算は今やいくつかあるが、いずれも当時も(南北)朝鮮は日本の半分か三分の一とする。

**百済は弱体化してから高句麗と同根とか扶余族(国名もこのころは南扶余と自称する)とか強調し始めた節もある。当時の南朝系宋書・梁書・南史は百済は一時「遼西」地方(遼東半島の西)に領土があったとか、三国史記百済本紀威徳王18年(571年)には「東青洲」(山東半島の突端)にも領土があったような記述がある。「済州島」を傘下に入れるのもこのころ。弱体の百済(王族)が、避難地逃亡地亡命地としてこうした海外拠点を意図的に確保しようとした可能性も残る。その一つが「倭」であり早くから高い身分王族を人質派遣し、この後も、倭に積極的に入り込み、やがて百済宮や藤原京まで設けていく。


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