波は来ない

最近、知人から「容姿のコンプレックスをどうやって解決したか」と聞かれ、上手い答えができなかったのでずっと考えていた。

私が容姿をコンプレックスに思うようになったのは、中学生のときからだったと記憶している。私が何か直接悪口を言われたという訳ではないのだが、その頃から周囲が誰が可愛い誰が可愛くないといった話をすることが増えたように思う。女子の友達や同じ部活の男子が「〇〇さんが可愛い」という話をしているのを耳にする度に、私は可愛い側の人間ではないのだということを自覚していった。

容姿のコンプレックスが一番ひどくなったのは、大学生の時期だった。出会う人がみんな可愛くて、こんなにも醜いのは私だけのように思えた。顔を掻き毟ってぐちゃぐちゃにして、死ねるものなら死にたかった。私が醜いから誰も愛してくれないのだと、本気でそう思っていた。

そんな私が、ここまで容姿を気にすることがなくなったのはなぜなのだろう。無理をして気にしないようにしたのではなく、あまりにも自然に気にしなくなったので、改めて聞かれるとよく覚えていなかった。


色々と振り返ってみて至った結論としては、「『自分と他人とは別の人間だ』という考え方ができるようになったから」である。これは容姿に限らず、能力や性格などのコンプレックスに関しても言えると思う。

「自分と他人とは別の人間だ」という言葉には、2つの意味があると思っている。まず1つ目は、「自分は他人と同じにはなれない」という意味だ。なんかちょっと小泉構文みたいになっちゃった(笑)文字にすると至極当たり前のことを言っているとしか思えないが、この考え方を実践しようとすればなかなか難しいことに気付く。

「あの人は可愛いのに私はそうじゃない」、「あの人は賢いのに私はそうじゃない」、「あの人は良い子なのに私はそうじゃない」……。誰もがこの嫉妬のような感情を、一度は抱いたことがあるのではないだろうか。それは、自分と他人とを比較してしまうから、もっと言えば自分も他人と同じになれるはずだと思っているから、であると感じる。

以前にも記事として書いたが、私自身、昔抱いていたコンプレックスは、他人の言葉や行動をきっかけに発見したものである。ここに他人を責める意図は全くないということは改めて強調しておく。私は他人の基準を気にして、それに近付こうと頑張っていた。それは、自分もそうならなきゃという強迫観念のようなものに似ていた。自分もそうならなきゃ、誰からも好かれないと思っていた。

でも、そもそも自分が「あの人」になれるはずがないのである。なれるはずだと思ってしまうから、その埋められるはずのない差がコンプレックスとなり、辛くなってしまうのだと感じる。

自分と「あの人」とは、同じ人間である。しかし、別の生命体である。その体を形作っているものも、その目で見つめてきた景色も、全く同じという人は存在しないであろう。例え兄弟姉妹でも、口にしたものも、足を運んだ場所も、1つ残らず同じという人はいないと思う。違うところだらけなのに、比較してもそこに意味などあるはずがないし、どんなに努力しても同じになれないのは当たり前である。

それに気付いてから、自分が他人と違うこと、基準から逸れていることに、ネガティブな感情を抱かなくなった。当たり前のことに、悩む必要性を見出せなくなった。


2つ目は、「自分が他人と同じになっても面白くない」という意味だ。

先ほども述べたように、私は他人の基準を気にしてそれに近付こうと頑張っていた時期があったのだが、ある日ふと「他人と同じになろうとして何が面白いんだろう」と思った。

鼻が高い、唇が薄い、顔が短い……。今の時代になると、「可愛い」「美しい」とされる基準は、ある程度定まってきたように思う。それに近付こうとし努力を重ねることを、何ら否定するものではない。それが自分にとっての理想で、楽しんで近付こうとしているのなら、全く問題はないと思う。

しかし、私個人の感情としては、それに近付こうとすればするほど、私が私でなくなっていく気がした。そして、私が私で生まれた理由、私が他人とは違う容姿で生まれた理由は何なのだろうと、考えるようになった。

他人の基準に合わせたら、私が私である必要はなくなるのではないか。他人と同じになったとして、果たして私は私のことを好きになれるのだろうか。そう考えたとき私は、他人の基準に合わせて、他人と同じになって容姿が良くなるとしても、私が私であることを大事にしたいと思った。私は私で生まれた以上、そのままの私を最大限に尊重して、好きになりたいと思った。

今は、他人の基準の中で私が「可愛い」「美しい」と思うものには合わせて、このままでいいと思うところは無理に直さないことに決めている。私は私のまま可愛く美しくなろうと努力を重ねるようになって、自信が持てるようになった。


かの有名なアレン様大先生は「深く考えすぎて良いことって無いので」とおっしゃっていた㌔、社会人になってそれは痛いほど感じている。深く考えるのは体力を大量に消耗するので、そんなことをしていたら精神的にも身体的にももたない。時間を持て余していた大学生の時期だったからこそ、それができていたのだと思う。

しかし、深く考えてきたからこそ、今の私があると思っている。時間があるうちは、たくさん悩んで失敗して、学んで強くなっていくべきだと、私は思う。だから、容姿をコンプレックスに思う気持ちがあるのなら、その気持ちを無理してすぐにでも消そうとする必要はないと感じる。知人にはそう伝えたい。


話は変わるが、作詞・作曲:大森靖子、詩:古正寺恵巳の、MAPA『SUMMER SHOOTER』という曲に、このような歌詞がある。

波は来ない 海に行かないから
嫉妬もしない 同じじゃないから

MAPA『SUMMER SHOOTER』

私が今回書いたことは、この歌詞の言っていることに近いと勝手に思っている。

海に行った人と行かなかった人とでは、比べることができないほどの差がある。海に行ったら波が来る訳だが、海に行かなかったら波は来ないのは当たり前だ。海に行った人と海に行かなかった自分とを比較して、あの人には波が来たけど私には波が来なかったと嫉妬することは、何かズレていると理解できるだろう。

絶対行こうな 夏の果て 水着より晒して
もっと もっと 恥ずかしいとこを愛して

MAPA『SUMMER SHOOTER』

ちなみに、サビの歌詞はこちらだ。私はこの歌詞を聴く度に、ある人を思い出してしまう。彼女も容姿に悩んでいたが、コンプレックスを解消する術を身につけて、それを発信してくれた。私は彼女に憧れ、大いに救われていた。彼女はうつ病を抱えていて、夏にうつ病がひどくなると言っていたように思う。理由は公表されていないし、詮索するべきことでは絶対にないが、彼女は夏を越えられなかった。夏の果てに行けなかった、彼女のことを思い出す。



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