岡崎体育とぼく
少し前にニューアルバムが発売されたタイミングだったり、
さらにもう少し前に感情のピクセルがバズったりしていたのに、
今更感が顕著すぎるが『MUSIC VIDEO』への思いを書き記しておきたい。
この曲がテレビなどで紹介されるときはさも「面白い映像が」というような説明がされ、
『MVあるあるの羅列によるネタ曲 』であるとか、『よくあるMVをディスっている 』という類の評価のものがほとんどだと思う。
そりゃあ、もちろん岡崎体育自身も笑かしに来てるところは多々ある。
というかほどんどがそれだ。
でも僕はこの歌を聴くと、かなりの高確率で涙腺を刺激されてしまう。
サビの『クリエイション』の連呼に、それまでの笑かしがむしろキラキラと光りだして 何だか ほろっとくる。
要するに ただただMVあるあるを羅列して、そんな作り方のMVをディスってるわけではなく、
「『クリエイション(=創造、創作)』する側というのはいつだって そうやって『あるある』と呼ばれる定形のものを意識し、それをかわし、必死の思いで
みんなが まだ見ぬものをひねり出そうとしている」ということだ。
そのおかげで僕ら受け手は、常にフレッシュで見たことのない創造物に出会うことが出来、それらに胸を貫かれる。
そう考えれば『MVあるある』を羅列するということは、良いMVを作る上での通り道としては至極当然のことのようにも思う。
もちろんそれを作品に変換してしまうというのは すごい発想だけれど。
サビの後半の歌詞
『揺るぎない制作意欲は作り手の願い
狂いなき眼差しは受け取り手の想い』
からも、とても真摯に音楽や映像の製作に向き合う人なんだなという印象を受ける。
ただただ バズることだけを考えている おちゃらけた人ではないし、
サビ最後の歌詞、
『一億人に届けMUSIC VIDEO』という歌詞も本音なんだろうなと思う。
ついつい冗談でけむに巻く照れ屋な部分と、サービス精神が混ざり合うことによって 岡崎体育流のユーモアが生み出されているのだと想像するけど、
本当に一億人に届けようとすれば ユーモアは絶対に必要だろうし、それこそが説得力を生むのだろう。
面白みのある曲に並んで『エクレア』や『式』が来るから、言葉の輪郭がより明確に伝わる。
『感情のピクセル』については まとめ記事や兵庫慎司のこの記事を
http://shinjihyogo.hateblo.jp/entry/2017/05/17/172541
読んでもらうと 早いので割愛するが、
僕として大事だなと思うポイントは、以下。
◯岡崎体育の曲は、『感情のピクセル』に限らず、ネタ寄りの曲でも 絶対 音楽として手を抜いていることはないように思う。歌詞もクオリティーが高ければ メロディーも良いものばかり。
ネタのためにお手軽パロディを披露するのではなく、曲自体の強度を高め、単純に『良い曲である』ということが大前提になっている。『とにかく まず良い曲である』ということ。
◯『感情のピクセル』は、いわゆる『ミクスチャーロックが、ハードコアやパンクやファンクに、ラップを混ぜた感覚』で、
『ラウドロックに わらべ歌を混ぜてしまった』んだと思う。
そんなもの誰もしてなかったからそりゃあ異質だ。
◯MVに出てくるとワニさんは、ウサギさんたち哺乳類とは あからさまに異質なので 仲間に入れてもらえない。
結局MVはワニさんが仲間に入れてもらえないまま終わる。
これはまさにラウドロック界から見た岡崎体育自身のことにも見える。
このMVの続きのワニさんのストーリーは これから岡崎体育が体現して行くのだとも読み取れる。
◯岡崎体育とSiMのMAHが対談している番組を見たことがある。
岡崎体育はSiMが大好きなようで、
MAHも最初は「好きじゃなさそう」と疑っていたけど、
具体的な『大好きエピソード』を聞いて
MAHも信用していた。
なので岡崎体育は『感情のピクセル』で連想させるラウドロックを甘く見ていることはないと思う。
なんてことがあった上で SiMのライブツアーの対バン相手に何箇所も岡崎体育の名前があって妙に胸アツだったりする。
僕はワニさんを応援しています。
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