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破滅願望。

中には紳士的にこの自傷行為に付き合ってくれる人も稀にいる前提の上で、自傷行為だと告げずにこれを行うことで、相手から物体として扱われては傷に塩を塗り込む行為だと気付き、物体として扱われたくなかったんだけどな、と独りごつ。どうもこんばんは。彗月はづき 漣太郎れんたろうです。地獄だ。


なんか病み期が月2に増えている。なんで金は増えないのにそんなもん増えるんだよお〜。

裏アカ女子。

というものをまあたまにやっているのだが、実は今年のいつぐらいからか、かなり本格的に裏アカを運用している。理由としては、ストレートに大人のオモチャなるものを買う金がなかったので、モニター案件を受けることでその代金を浮かせたれというのと、以前にも話したのだが『女性が自分で使った大人のオモチャのレビューが少なく、買い物する時に賭けになることが多い』という現状の解消のために全力でレビューするため。あとついでに承認欲求の解消のためである。

レビューは本来は140字もあればいいのだろうが、「よかったです」「かわいかったです」では意味がないので、都度都度1000〜3000字ほどのレビューを書いている。まあ審査に通らないので最近は500文字程度のAmazonレビュー+1000字程度のTwitterレビューという形にしたのだが、とにかく『どのぐらいのレベルのユーザー向けか』『てめえの腹の中ではどこがよかったのか』『機能性と使用感』ようわからん機能や特徴があれば紹介』と言ったところをベースに色々書くようにしている。

Twitterでは興味を持った人が時々リプライを送ってくるので質問には答えるようにしている。ついでに、Amazonで評価する時にはベタ褒めにするのが大前提ではあるが、どちらのレビューでも『上級者向けで初心者には難しい』や『かなり刺激が強いから人によっては痛いかも』や『自分の体型のせいかはわからないがうまくフィットさせるのにコツがいる』とぼかした表現でデメリットも書くようにしている。伝わればいいのだが……。(モニター代金の返金があり次第、これらのデメリットも少しずつ解禁するのだ)

おかげさまでここ最近の女性向け大人のオモチャで棚が埋まってしまったわけだが、レギュラー入りは2,3台なので「これブルセラみてえに売れねえかな〜〜〜」と思っている。穴はいくつかあれどサイズが合うのは2つだけなのにこんなにいらんのよ。

ちなみにだが、ブルセラ的に使用済みバイブを売る場合、(規約は置いておくとして)古物営業法としてはどのような見解なのか調べたところ、単に『使わなくなったから中古で売る』場合と違い『中古販売物に『使用済み』という付加価値を上乗せして売る』と見なされるため、素人のフリマ販売ではなく、業者として古物商としての許可が必要になるらしい。へぇ〜。(そこまで理解している人がいるのかはさておき)だからパフォーマンス(つまりはまあ使用してみせるという)の代金を受け取った上で、おまけとして配るのが使用済みバイブの正規ルートになるのか……。

ちなみに個人的ヒット商品はTara2代目(これはプレゼントで個人的にもらった)と、直近ではColeur Dorとかいう余分なオプションがほぼない“例の”に似た形状のものである。

肉欲と焼肉欲と離人症。

そんな裏アカで、自棄になると出会いを求める投稿をする。金はいらんから焼肉奢ってくれ!と乳画像を載せたりする。本当は金も喉から手が出るほど欲しいが、当然、堂々というわけにもいかないし、いうてアラフォーに差し掛かり、特にメンテナンスもしていないこの身を対価に金を受け取るのは些か気が引けるので、表向きは焼肉を食わせる代わりに肉を抱かないかと騒いでいる。正直、自傷行為としてこれを求めている。これも以前書いたが、自殺ごっこなのだ。うっかりで破滅してしまいたくなる時に、めちゃくちゃにしてくれと当たり散らす。

今回はやたらに親切な人が二人、本当に肉を奢ってくれたし、一人はセーフティセックス、一人は指先も触れる事なく、こちらの話を4時間も聞いてくれて、あんまりセックスに関係ない自分の趣味主義思想を語り尽くして気持ちよくなり終わった。ありがたい限りである。どちらもセックスはする前提ではあるが、かなり好感が持てるし紳士的だったと思う。

ただ、前者については、私の体が、セックスする最中と無関係に拒否反応を示した。帰り道の電車の中である。セックス自体は(まあそこそこ手付きに不安はあるものの)こちらは負担もさほどなく、まあ満足のいくものだったし、向こうもまあ悪くなかったと思ったということにしておきたいのだが、ラブホテル特有の知らないブランドのシャンプーの香りが、満員電車でようやく座れたという瞬間に鼻につき、それでフラッシュバックが起こり、吐き気とパニックに陥りかけた。

降りてしまうと終電に間に合わないから耐えたが、その瞬間から、かつての『小さな私』がただただ逃避するために覚えた“離人感”、ぽっかりと自分を外側から眺め、あーあと可哀想な身体を見下ろし、本体は次に動かなければいけないタイミングを待ってぽんやりとカバンの織目を数えていた。

この離人感は翌々日の、健全なフォロワーとのピザ会まで続く事となる。食事を摂ろうにも本体はその必要性が理解出来ないからトイレにも行かず水も飲まず、多分1回か2回だろうか。ベッドから起き上がる以外はぼんやりと眠ったり起きてTwitterを眺めていた。ピザ会に行けたから回復したが、これがなかったら恐らくまた変な衝動に走っていたか何かしただろう。

正直一人目は最初は『食事だけ』の名目から会っていたのだが、まあそんなわけもなく、待ち合わせてブラついてしばらくしてから持ち物を見てみればそりゃあもう大量のお道具が入っており、食事を終えて格安ホテルに入り、やる事はやったので(別にその募集をしたのだから文句はないが、食事だけだと油断させて結局は、という形だったので)少し信用は落ちた。前戯も後戯も丁寧だったからその点でも別にさほど文句はないが、ゴムの付け方が正直危なっかしかった。いつか破れるぞ。

そんな不安を抱きつつ二人目。結局やる事はやるんだろうな……と思いながら会ったわけだが、指一本触れることなく、それどころか一人の創作人として耳を傾けてくれ、呑み終わってから資材問屋を見学させてもらい、健やかに明るいうちに解散となり、こちらは晴れやかな気分で終わった。

結果的に性欲は特に満たされてはいないのだが、では私は何を求めていたのかというと、性欲でもなく破滅でもなく、他人との関わり合いだったのかもしれない。訪看さんや大家さんほど気を使わなくて済む相手との。これらはどう足掻いても自分より上の存在で、私の生殺与奪を握っているし、自傷行為も性的な話もできないが、そうじゃない相手と直接会話する術が今はほとんどないのだ。

あと美味しいご飯。一人で食べる食事は本当に美味しくない。金を食って糞にする作業を義務的に行うものである。それがしんどくて最低限の液体飼料だけを飲むようになったが、これには欠点があって、これだけだと腸が驚くほど動かないのだ。そりゃあ消化の必要がほとんどない液体であるから当たり前なのだが、毎日快便マンだった私が、気配すら感じないまま、そういえば最近お腹が鳴らないな?と気付き、便秘の苦しさもなくぼんやりとしていたら、ある日ドカ食いをした直後、猛烈な痛みと共に出た糞がそりゃあもう猛烈に臭かったのだ。猛烈に。当たり前である。本来は私は6〜12時間ほどで食べたものが糞になる体質なのだ。6時間で出るべき糞が一週間以上腹の中にいたのだからそりゃあ臭いし、毒素を出しているのかとにかくこの時期にはニキビも酷かった。

うんこ。

という、まあ、ひでぇ見出しになるのを覚悟の上でこの流れで書くのだが、なんでこの話が混ざってくるのかというと、まあその、それなりのサイズが入る穴が女には3つあり、全部使いたい人は多い。また、特殊な訓練をするとそのうち2つはめーっちゃ長いものが飲み込めるわけで。つまりは『結腸ぶち抜きって結局どんな感覚なのか?』という、エロ小説書きとしての好奇心故にそっち系のおもちゃを色々探しているのを公表しているのだが、故に、後ろを使う話が出ており、で、あんまりヤバい糞を出すわけにはいかないので、ここ数日は一人でもやむを得ず金を食っていた。

食べたくないものを食べ続けるのは疲れる。人体は不便だ。便だけに。

ちなみにだが、上からの訓練はそれなりにしており実はトリキの貴族焼きぐらいなら縦に食べられる時期があった。(最近は試していないからわからないが)剣を呑む曲芸までならなんとかなりそうな気がするし、様々なプレイに順応して結果大体のプレイに対応出来たのだから、いっそフリークスショーか何かを主体とした物体として檻の中にいた方がいいのではないだろうか、とも思う。(これはとても本業の人にしてみれば失礼な発言であるという言い訳を書き添えさせていただく)それだけ私の身体は様々な痛みに耐えて、訓練して、歪にされてきたのだ。

パフォーマンス。

である。夜職というのは。(倒置法)私は所詮立ちんぼでありプロではないが、それでも身体を金にしてきただけの自負がある。接客とパフォーマンスと人間観察、思考、客の求める限界に応え続け努力をし、満足するまで己を破壊し続けた。自分の身体のメンテナンスをしつつ、ボロ雑巾のようにされ、時に死にかけ、脅され、殴られ、訳のわからんモノをねじ込まれてきた。パフォーマンスではないか。パフォーマーは商品である自分のカラダをきちんと守るのだから、そう考えると私の身体は、野晒しで、蹴飛ばされていたわけなのだから、世間で言う可哀想な見世物である。哀れな意味での見世物である。

推しがきちんと学術的側面でも眺めている文化を否定したくないから、そろそろこの話をやめたいのだが、誰もが見世物になりたくてなったわけではないという部分は目を逸らしてはならないものだ。見世物小屋にしても、遊郭にしても。アングラ文化のテーマとしては私も好きだ。煌びやかな表布に地獄の裏地を貼り合わせたカバンである。そこに夢や芸術を詰めるのは結構な話だが、詰め物で傷付けられるのは裏地ばかりである。表もね、経年劣化していくわけだが、それは『味がある』『自分で育てる』と言われる傷だ。

未だ地獄にいる私は、未だに酉の市の見世物小屋でさえ(あれは人権が守られているものだと信じたい)(本人が望んでいるとしても、そんなもの本人だって本当に望んでいるかどうかなんてわからないものだから、信じていいものなのかは周りの人間が熟考しなければならない)不安なままだ。こんな文化を残していいのか、と、いつまでも残って欲しい文化だ、の間で楽しんでしまっている。AVも風俗もエロ本も全てだ。消費することで加害者になりうるという意識は持たなければならないと思うし、その意識を持てとぶん殴りたくなる。日がある。それが、ちょっと続いている。

あふぃ。

ということで、哀れな物体に慈悲をくれたもう。


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