2.

 子供の頃、僕は医者になりたかった。まだ幼い僕は、医者は死なないと思っていた。これは、医者は自分の健康に普通の人より気をつけることができるから、人より長く生きられる、みたいな意味じゃない。僕は本当に、医者という生き物は死ぬことがないのだと勘違いしていた。それを当たり前の事実だと思っていた。それが間違いと気づいたのは、何歳の頃だっただろう。小学校にはまだ入学していなかったと思う。え、医者って死なないんじゃないの!?と聞く僕に、母は、そんなわけがないと笑っていた。周りにいた家族も笑っていた。

 一方、僕はアイデンティティクライシスともいうべきものに襲われていた。医者になっても死ぬ。ということはつまり、僕は死ぬ。医者になれば死ななくて済むんだよなあ、なら医者になるしかねえなあ、とか思っていたのに。どうがんばっても、医者になっても、絶対いつかは死んでしまう。その事実が、僕にはどうにも受け入れられなかった。確かそれは年明けの頃で、祖母の家にいた時のことだと思う。親戚が集まって、楽しい雰囲気で、僕も楽しかった。でも、死が確定した瞬間から、僕は絶望感にさいなまれていた。いつか死ぬのに、なんでみんなはそんなに楽しそうなんだろうと思った。死が確定しているのに、なんで平然としてられるんだろうと思った。もしかするとこいつらは、僕とは全然違う生き物なんじゃないかと思った。そう思ってしまうほど、僕にとって死は受け入れ難いものだった。受け入れてる奴らを理解することも不可能だった。

 それまでは、自分は医者になって、死なない側になるつもりでいたので、死について考えたことはなかった。でも、もうそういうわけにはいかない。僕は仕方なく、死について考え始めた。生まれ変わったとしたら、生まれ変わった僕は、僕のことを覚えているのかなあとか、そういうことを考えた。生まれ変わった僕が、たまたま僕の家を通りかかって、その家を見て、僕はどう思うんだろう、みたいな妄想をした。でも覚えているわけはなくて、何も感じるわけもなくて、すると、今ここに存在する僕は、跡形もなく完全に消えてしまうということで、僕はそれが本当に恐ろしくて、嫌で、泣いた。そもそも生まれ変わりなんてなくて、じゃあ死んだ後はどうなるんだろう、いや、どうにもならないのが死ぬってことなんだよな、じゃあどうにもならないってどういうことなんだ。僕の残念な頭はいつもここまできて堂々巡りに陥った。

 死にたくない、みたいなことを言うと、大人は決まって、でも自分一人が死ななくても、大切な人はいなくなっちゃうんだよ?みたいなことを言う。僕はそういう応答にうんざりしていて、話にならないと思った。それは死を受け入れるための詭弁でしかないと思った。今でもそう思っている。死ぬからこそ、人生には意味がある、みたいな詭弁も嫌いだ。なら今ここで死ねって思う。お前の無意味な人生に意味を持たせてやるからこっち来いよ、殺してやるから。この攻撃性は羨ましさからくるものなんだろうとか、そんな当然のことに、僕は今更に気づく。

 今の僕はどうだろう。昔みたいに、死に怯えて、毎日死について考える、みたいなことは無くなった。でも、それは死が怖くなくなったからではなくて、単にその恐怖から目を逸らすことが上手くなったからだと思う。でもそれは、なにかもっともらしい詭弁を繕って、それを隠す、という方法ではなくて、単に目をそらす、という方法に依っている。どっちも同じか。眠れない夜は死について考えてしまうし、不死になる薬があったらきっと、死んでも手に入れる。

 いつか死ぬんだから、やりたいことやったもん勝ちだよ、みたいな説もある。こういう物言いに、多くの人は勇気をもらうらしい。新しいことに挑戦する糧にするらしい。僕は、じゃあ何もしないことにしよう、となってしまう。根がニートなんだな、こりゃ。誰か殺して欲しい。こういう時に殺して欲しいというのは、つまり、惨めな僕を誰もいないところへ追いやって欲しいということで、それはすなわち、僕一人が死ぬことと、お前ら全員が死ぬことが、僕にとってはあまり変わりがないということでもある。

 死を受け入れることは到底できないし、自分一人になってもずっとずっと生きていたいと思う。でもそう思うのは、生に対する無条件な肯定ゆえのものかもしれなくて、実はそれは、生に対する無条件の降伏とでもいうべきものかもしれなくて、はたまたそれは、死んでいるのとおんなじなのかもしれない。僕の残念な頭は、いつもこうやって、意味のわからないことを、意味のわからないままに考える。死んだ後も、実はこんな感じだったら、死ぬのも悪くないかもしれない。いや、悪いな。普通にずっと生きていたい。誰か、方法知ってたら教えてくださいね。

終わり。







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