1.

 文章を書いてみようと思う。動機はなんだろう。わからない。でもとにかく書きたい気分になった。それはもしかすると、低気圧からくる憂鬱さとか、テスト前の焦りとか、そういう些末なものかもしれないけど、まあとにかく書きたいものは書きたい。

 完全に後付けだけど、文章を一定の頻度で書くことには実際的な意味もあると思う。まずもって、自分の成長の足跡を残せる。
 
 僕は二ヶ月前くらいに、高校から合格体験記作成の依頼を受けて文章を書いた。文章を書くのは嫌いではないので、その作業は楽しかったし、全力を出して書いた。まあ、テーマがテーマだから、名文が書けたか、と言われると、そうでもない。でも、当時はいい文章が書けたと思った。そして最近、完成した冊子が届いた。当然のように自分の文章を読み返した。結構びっくりした。その拙さに。どこがどういうふうに拙かったのだろう。僕は文章評論家ではないからわからないけど、とにかくゴミみたいな文章だった。それを読むまで、僕は二ヶ月前の僕となんら変わりがないと思っていた。でも二ヶ月前の僕の創作物を見た限り、そうではないらしい。そして重要なのは、その変化が決して劇的なものではなくて、連続的なものだったことだ。恐ろしい。つねに、以前は僕だったものが、僕から崩れ落ちていく。きっとあの文章がなければ、僕はそのことに気づくことはできない。もしかすると現在進行形でゴミを生み出しているのかもしれないけど、そのことに現在の僕は気づくことができないので、少し先の自分に委ねようと思う。そのためには、文章を残すことが必要だ。

 あと、こういうなんの根拠もない、重要でない文章を書ける場が欲しかったというのもある。大学では基本的に、根拠のないことは書いてはいけないということになっているらしい。何を書いても、決まって、根拠は?エビデンスは?と聞かれる。正直バカじゃないかと思う。(でもこういうことを言うと、じゃあ君は大学に来るべきではなかったのではないかと言われることは目に見えているし、僕はそれに反論できないので、何も言わずに我慢している。)こういう場は、エビデンスの悪魔からの避難場所というのとは別の意味もある。それは、僕のゴミ捨て場になる。ぼくは毎日くだらないことを考えていて、そういうくだらない思考のために落ち込んで、全部嫌になったりする。一旦言語化して、文章にすれば、そういうのは消える、とは言わないまでも、相対化して、冷静にみることができる気がする。文章にするという手があれば、僕のくだらない思考も、あるいは、若干くだらない思考くらいにはなるのかもしれない。


 現時点ではそこそこの頻度で文章を書きたいと思っているけれど、いかんせん僕は飽きっぽい人間なので、これが最後の文章ということにもなりかねない。自分の飽きっぽさ加減には、いつも辟易としている。実際、今この瞬間にも、執筆意欲がしぼんでいっている。もしこの文章が最後まで書かれていて、どこかに投稿されていて、あなたがそれを読んでいるのなら、それは結構すごいことだ。普段の僕からは考えられない。

 文章を書きたいなら1人で勝手に書いとけばいいと思うかもしれない。でも僕は承認欲求強めの人間だし、誰からも見られていないところでがんばれる人間でもない。この文章を読んでいる人が現実には誰一人いなくても、もしかしたら誰かが読んでいるかもしれない、そういう意識が、僕を書くことへと向かわせる。もしかしたら、この文章を読んでいるかもしれないあなたが、もしかしたら、なかなかいい文章だなと思っているかもしれないことに、もしかしたら、僕は言いようのない嬉しさを覚える。

終わり。





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