晴れオケ 第9

素晴らしい番組をありがとうございま。
BSプレミアムの晴れオケ第9を聴きました。(1945.11.27@第一生命H演奏)

指揮者がいないオケの第9が日本の優れたオーケストラプレーヤーの手になり, 自主的な進行に委ねられると, どのような曲作りになるかはとても興味深かった.

結論としては, 音楽がとても自然な響きを積み重ねていたことと作曲家ベートーヴェンを感じることが多い演奏だったこと.

(補足)
コンサートマスターの矢部氏の基本的なイニシアチブの中で演奏者が相談しながら作るものの, 矢部氏は『100-200回積み重ねた個々のプレーヤーの経験は1度横においてください』と述べているが, 素晴らしい指摘と思う.

自分が演奏してきた著名指揮者の解釈を自分の経験値として, そこから調整をするとするなら, なにゆえ苦労して指揮者なしで演奏するかが希薄になる.更にはまとまりもしない.
しかし今回出来上がって響いた演奏とは, ある意味凄い大向こうを唸らせる解釈が投入されたり, 感動が増すというものではなく, 音楽がプレーヤーの僅かな契機を取りながら, 自発的な進行で進むことを現していた.作曲者の音楽的な工夫も楽譜ベースにおいて共有され, 意図が鮮明になると共に初めと終わりがより明確にも感じられた.より詳しい音楽の専門的な所は別として, 例えば, 通奏低音的に響くところもマルチチャンネルの映像と相俟って澄んで耳に届いた感覚を得た.(続く)

2楽章の終わり方もそうであるし, 最終楽章のアッチルランドの少ない進行はより優しいが心に伝わる第9に聴こえるのは, この曲がいかに堅牢な構造と前に進むダイナミズムを内に待っていることが理由であろうから, 可能であったと強く思う.一方で例えば激変する箇所で想念を合わせることは難しくたとえ技術的な点を除いても満足感をえること, もっと言えば指揮者無しの合理性を主張することがひょっとしたら難しい曲であればこのアプローチは成功しないのかもしれない.それだけ楽譜額面通りの演奏だけではない部分は大きいはずなので.ベートーヴェンにおいて楽譜を超えたものを我々は幻想していたのでは?としばし思わせる演奏だった.

また印象に残ったのは2つあり, 音のズレがむしろ指揮者無しであるがゆえ少なく 二つに音の透明感が強くあってこと.これはプロプレーヤーの矜恃であったろう.

そこにはおどろおどろしい第9の印象はなく, まさに伽藍の寺院において響くような自然な流れが連綿と続いた.

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