じゃあ結局ゲームは悪なんでしょうか

 今めちゃくちゃコロナウィルスのニュースが出回ってますね。AbemaNewsで最新情報を眺めてたところ、おもむろに香川県のゲーム条例の話題が上がってきたんですよ。曰く、「ゲーム依存対策に、ゲームは1日1時間にしましょう」と。

 高橋名人?

 とか思ってると、当の本人が「(意訳)いや別に1時間に意味はないよ。標語として言っただけだよ」と仰ってるじゃないですか。

 じゃあこの条例なんなの?みたいな疑問が湧いてくると思います。僕は思いました。1時間に学術的な理由もないし、ゲーム依存症という問題に対して「じゃあやらなきゃいいじゃん!!」みたいな小学生の言いそうな回答を何となく出力して、実際にやってる人の気持ちとかも特に汲まなかったせいで猛反発を食らい、慌てて「意見募集しまーす」みたいな感じになってる。そんな風に見えてます。

 なぜゲームは悪とされがちなんでしょうか?ゲームに熱中する子供達と、大人はどう付き合っていくべきなんでしょうか?

昔からゲームは存在していて、形が違うだけ

 ゲームという言葉を使うと、機械を媒体に室内を中心に行うモノ。そんなイメージが定着して久しいわけですが、じゃあゲームが現れる以前、人々は何を娯楽にしていたのでしょうか。

 例えば体を動かしたい子供は、幼くは追いかけっこやかくれんぼ。ある程度成熟するとサッカーや野球。そういったもので遊んでいました。スポーツ、という言葉を使うと非常に健全そうに見えますね。体を動かしてそう、健康によさそう、コミュニケーションの育みによさそう。そんなイメージがある、"クリーン"な娯楽です。

 いや、娯楽なんですよ。大事な部分は。

 子供達、そんな"俺たちは……健全!!"みたいなこと考えて、遊びをやってるわけじゃないんです。彼らが考えてるのは、いつでも"楽しいか"なんですよ。実際、そういうスポーツは今でもやる子供達が十分いるわけじゃないですか。そういうモノは、十分な楽しさが内包されていて、それを子供たちが楽しいと思うから未だに生き残ってるわけなんですよ。現代で蹴鞠とかほぼやらないじゃないですか。蹴鞠、やったことあります?

 楽しいかどうか。まずそれが大事なんです。その点で、子供達にゲームがウケるのは当然でした。だって、飽きないんだもの。

 よくあるじゃないですか。トランプとか鬼ごっことかでも、普通にやってるだけだと飽きてきたからっていって、子供達が勝手にルールを追加したりするやつ。そう、ローカルルールですね。大富豪で普通にパワー通りに出していったら流れのパターンが似通うから、8を出した時だけパワーに関係なく流そうとか。子供達、とにかく楽しいことはめちゃくちゃやるんですよ。だからすぐ飽きるので、楽しめるように工夫するんです。

 そういう環境、子供たちが行う"遊び競争"の場において、ゲームが上位に来るのは当然なんです。だって、大の大人が日本中、あるいは世界中の人々に向けて「これは楽しい遊びです!!」というものを考えて、システムを作り上げて、満を持してリリースするものですよ?

 つまり、言い換えれば、子供達がゲームばかりやるのは他のものが相対的につまらないからなんです。大人達は何かと勉強しろとか早く寝ろとかそんな事ばかり言って、でも自分たちと遊んでくれたり"楽しい"を提供してくれはしないし。でも、ゲームは違います。全力で自分たちと向き合って、上手に出来たら次のステップへ進めるという"ご褒美"で褒めてくれる。

 子供達の欲しいものがよく考えられて作られているゲームに、"周りの大人達"が負けてるだけなんですよ。

「おばちゃんたちには難しいわぁ~」

 子供達が楽しいことに熱中するのに対して、大人達はどうゲームを捉えているのでしょうか。

 ソースは確認出来てなくてうろ覚えなんですが、以前Twitterかどこかでこんな文章を見た事があります。それによると、「人間は生まれた時から何十年かまでの周囲のテクノロジーを"自然なもの"として捉え、それ以降に出てくるテクノロジーを"自然に反しているもの"と捉える」というものでした(要出展)。

 自然かそうでないかは、言い換えると「あって当然なもの」「あっちゃいけないもの」とも言えるかもしれません。でもこれ、世代によって感じ方に差があるということは、結局その価値観は違う世代の人間にとっては全然異なる、"相対的な良い""相対的な悪い"でしかない、ということを示します。

 つまり、"生理的にムリ"なんですね。

 この"生理的にムリ"、近いところではSNSでもよく取り沙汰されているので言うと、噂のヴィーガン過激派の人達とか、女性差別過激派の人達でしょうか。この前献血のイラストで揉めてあっさり流されてましたね。ああいう人達も、批判の源泉は「(自分の価値観において)悪!!」なんですよ。でもこういう論調は、結局"閉じ込める"話にしか行きつきません。

 本題の方に戻りましょう。今、この香川県のゲーム規制条例も全く同じことが起きています。規制条例を作り上げたおじいちゃんおばあちゃん達にとって"ファミコン"で夢中に遊ぶ子供達は、理解できないモノとして邪悪な扱いをされてるわけですね。そんなんより、絶対(自分たちの知ってる)囲碁や将棋の方が素晴らしいじゃん!子供は友達と体を動かさなきゃ。外で遊びなさい!と。子供たちの求めてるものがそのゲームに遥かに詰まってるとも知らずに、偉そうにそう宣うわけです。

 これこそ、子供達がゲームに向かいっきりになる最大の理由です。「あいつらやりもせずに、超偉そうにつまんないことばっか押し付けてくるじゃん。うんこだな」と。子供達はよくわかっているのです。大人たちが自分たちの価値観をナメていることも。自分たちの"正しい"を知ろうとすらしない怠慢を。素直に楽しいを学べない愚かな大人達を時代遅れと見放して、新たな楽しいと向き合った大人達が作った、「自分たちと向き合ってくれている」ゲームに寄り添っているのです。

ゲームと和解せよ

 私達大人は、じゃあ彼らとゲームに対してどうするべきなのでしょうか?実は、この回答は本当にシンプルで単純なモノなんです。それは、根本から言うと「異なる価値観を学び、知ろう」というもの。もう少し今回の事例に沿って具体的にすれば、「子供たちになぜゲームがそんなにウケているのか。子供達が求めているものを知り、ゲームがどういう仕組みで何を与えているのかを学ぼう」ということになります。

 子供達が一人っきり、ゲームという敵地で遊んでるなら、自分たちから乗り込んでいけばいいじゃないですか。「何のゲームやってんの、混ぜてえや」って。そして一人でやるより一緒にやった方が楽しいことを感じさせれば、「ゲームだけが楽しい」から「誰かと何かを一緒にやることが楽しい」に徐々に変化していきます。だって、楽しいことが大事だもの。

 楽しさで上回れれば、そういう子供達は自分たちから「次コレ一緒にやろう!」「あれで遊ぼう」って寄ってきてくれます。だって、楽しいんだもの。もっとやりたいもの。そうしたら、別の形の楽しいに今度はこっちから誘ってあげて、やり取りを増やしていけばいいんです。

 これの最初が出来ない大人、多いと思います。ゲームとかわからんし。出来ないし。って。そりゃそうですよ。最初は何だって難しいんですから。

 自分が新しいことを始めようともしないのに、平然とやりたくない子供達に勉強とかのやり慣れてないことを勧めてるから、うんこなんですよ。カスなんです。舐められるんです。新しいことを始める大変さがよくわかってる人間は、嫌なことをまず押し付けません。楽しいポイントをアピールしたり、自分と一緒にやることが楽しいよ、と子供達が"やりたくなるよう"に持っていきます。そして、頑張ってやってくれたら、色んなことを褒めるんです。褒められたら、楽しいし嬉しいですから。そういう、「どうされたら嬉しいか、楽しいか」を学ぶために、新しいことをしなければなりません。

 勉強しなきゃいけないのは、実は子供ではなく、大人の方です。「子供は大人を見て育つ」はまさにその通りなんです。"理解できないこと=悪"にしている姿を見せる限り、子供達も理解できない大人達を嫌うのです。

結局、ゲームは悪なのか?

 規制条例で、ゲームはしてはいけないもののような扱いを受けました。では、彼らは一体子供達に何をさせてあげたかったのでしょうか?その回答がない限り、その回答に挙がる勉強やスポーツを"楽しい"と思わせられる工夫がない限り。それらは、大人の悪しき感情論でしかありません。

 ゲームは、確かに体全身での運動を怠らせます。これは、たぶんゲームにおける最大の問題と言えるかもしれません。そこを問題視するのでしたら、子供たちが広く遊べる十分な大きさの公園を学校の近くに設けたり、遊びを教えられる大人達の文化を養うように舵取りをすべきでしょう。

 勉学に関してゲームを問題視するのでしたら、複雑な話になるでしょう。というのは、学校で学ぶ教養が画一的でつまらないというような観点もありますし、ゲームが教養を与えないかというとそれも異なるからです。

 ゲームの種類にもよるでしょうけれど、物語性の強いロールプレイングゲームなら国語的な物語を読み解く力を養えるでしょうし、リソースを意識するシミュレーションの類なら、数学の問題よりよほど"実際の"数字を意識する機会に恵まれます。自由なモノづくりなどが売りのサンドボックススタイルのゲームであれば、美術の授業よりよっぽど"好きな物を作ろう"に限りなく近づく、自分の好きなデザインの能力などを養うことが出来ます。これらを踏まえてなお、ゲームが勉強を怠らせると断ずる事は出来るでしょうか?

 他人とのコミュニケーションという観点においても、色々な見方が出来ます。元々、大人達の"誰とでも楽しく仲良く、わいわい遊びなさい"というリクエストが子供達一人一人を見ていない、現実に即していないものだという点。閉鎖的で流動性のない学校というコミュニケーションの場に馴染めず、いじめなどで輪から外れた子供たちがゲームでのやり取りを通じて別の場所に友達を作れることもあるでしょう。元々交流が苦手な傾向の子が救われることだってあります。

 これら多数の点について賛否両論があげられる以上、一概にゲームが排斥すべき悪と断ずることは出来ないでしょう。であれば、現状を受け入れ、上手な共存を図るしかないのです。つまり、この香川県のゲーム規制条例については強行であり、ただ一方の価値観を感情のまま押し付けているにすぎないと見做すことが出来ます。

 ゲームと和解せよ。敵を知り、己を知りましょう。

これはおまけ:ゲームの観戦も楽しいよという話

 ここからは余談です。野球とかって、観戦するという文化が成り立ってますよね。近年では、ゲームでもそういう文化が成立してきており、海外ではもはやメジャー、日本でも今徐々に水面下で浸透してきております。eSportsとか言いますね。

 え、ゲームがスポーツ?

 と思う方もいるかもしれません。スポーツと言うと運動とかが先に立ちがちですが、意味としては「競技」も含まれます。そして、競技という点で言うと、ルールがあり、戦略があり、戦術もある。見ごたえもあるんです。

 だいたい多くの人は、このルールというところで躓くかと思います。でもこれ、ゲームに限る話じゃないんですよ。例えば、テレビでやってる囲碁の実況とかも、囲碁全然知らないと「なんで石ばらばら置かれてんの?全然わからん つまらん」とか思っちゃうじゃないですか。これもあれですね、さっきの"新しいことを学ぶのはしんどい"の心理ですね。でもこういうのは、大本である"何をしたら勝ちとなるか"の目標を学べばOKです。そこさえわかれば、ざっくりわかります。

 サッカー的ゲームで言えば、League of Legendsとかは有名どころですね。5vs5でなんかわちゃわちゃするゲームです。これだけだと、「は?」という風に思いますね。実際これぐらいの気持ちで観ると、「あー実況の人がなんかわいわいいってエフェクトがすごい飛び交ってる 何もわからん」で終いになります。

 あのゲームは、左下チームと右上チームがあって、それぞれのスタート地点に「ネクサス」っていう最終地点があるんですよ。そこをどちらが先に破壊できるか、というのを競い合うゲームなんです。それを阻止するために、お互い防衛するための守るべき設備があったり、進軍する兵士がいたりして、それらを各プレイヤーのキャラクターである「チャンピオン」がいかに相手より上手く攻略していくか、という流れがあります。各プレイヤーの使うチャンピオンはすごく強く、無視しては進軍できないので、どうやって上手にやっつけて進軍するか、そのための最大10人で行われる派手な戦闘が見どころです。

 こういう風に、ゲームの観戦もサッカーや野球観戦と同じで見どころが分かれば楽しめます。でも1からそれらを勉強するのはつらいでしょうし、そういうのを上手に教えてくれて一緒に楽しめる友達がいれば、一度教えてもらって学んでみるのはいかがでしょうか。

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