思索:チームゲームについて

 最近、チームで勝利に向けて戦うゲームを誰かとやる時、その在り方についてすごく悩んでる。これは自分に向けて自分が考えることを説明して正しく理解するための文章だ。

 チームゲームっていうのは、通常、自分一人でマッチングを入れて他の敵味方はランダムな人で組んで戦ういわゆる"野良"と、自分以外に共闘する味方をあらかじめ決めた状態でマッチングを行うやり方との二つがある。この二つは結構意味が違い、特に完全な野良と味方チーム全員に結束がある状態とでは、ゲームの向き合い方も違ってくる、と思ってる。

 ただ、皆がそうとは限らない。

ぼくの理想

 ぼくは、結構極端な人間だ。人と関わり合いになる時、あまり自然体でいていられず、一定量の負荷がかかる。なので、あんまり特別話題や必要性がなければ、なるべく一人でいてたいな、と思うタイプの人間だ。

 なもんで、わざわざ集まってゲームをするからには、それなりによい体験をしたいと思っている。少なくとも、コストを支払ってよかったと思えるぐらいには。これは野良でもあんま大きくは変わんなくて、気分悪い体験はなるべくしたくない(ここは皆そうだろうが)し、なんなら気分よく終わってほしい。勝っても、負けたとしても。

 野良だったら、多少割り切れるところはある。相手は顔どころか性格もわからぬ赤の他人だし、チームでの対人ゲーって理不尽や自分の手の届かぬ負けとかもたくさんあるから、それに対してフラストレーションを顕わにする人もいる。絶対いる。一定数いる。それは純然たる事実なので、まぁ野良だしな、で済ますことにしてる。それ以上どうにもならないし。

 誰かと共闘する時、たいていそういう時はボイスチャットを併用することになる。ボイスチャット無しでも共闘の意味はあるけど、やっぱりスムーズな意思疎通や距離感の近い体験となると、欲しくなる。でも、ボイスチャットはよくも悪くも感情も伝わってくる。勝ってこのゲーム楽し~~って感情もだし、誰かの気分悪いな~って感情も伝わる。ガッツリ伝わる。そういう意味では、野良よりもずっと明確に"場"が形成される。

 こういう場に対して、ぼくは過剰なぐらいに気を遣ってしまう。失敗したなって人には「どんまい」「まぁしゃあないね」と言ったり、話が進んでないなって思ったら「次どうする?」と促してみたり。なるべくする。だって、場の雰囲気が明るくなって、必要なポジティブな話題に皆が積極的にノってくれれば、チームでちゃんとゲームに向き合ってる状態になれるから。

 逆に、チームでしっかりと組んでるにも関わらず、みんなでどうしよっかという話題が出なかったり、各個人がただ自分たちの状況と戦ってるだけだったり、お互いの状況や確認を尋ねずにゲームが進行してると、「これ、チームでゲームしてるのか?」という疑問がすぐ頭をよぎる。これって、ほとんど野良と変わらない。そういう風になってくると、ぼくはただ余計なコストを支払って野良をやってるんだなあと感じられ、苦痛に思ってしまう。

 だもんで、ぼくのチームゲームに対する理想は、「みんなで戦いに向き合う」が第一だ。得意不得意は皆あるから必要な部分を補いあったり、そうでなくても会話しあって団結感ぐらいはもちたい。そう思ってる。


 もうちょっと言えば、だいたいそういうゲームって勝ってる時は楽しいもんだ。勝つっていうのは、単純に楽しい。相手を征服するという楽しさ、場を支配してるという楽しさ、それは野良でもチームでも変わらない。

 もちろん、逆も言える。負けてる時は苦しい。ただ、そこで違うのは、「負けてるからどうにかしたいな、どうしよう」って明確に相談できる味方がいるっていう点だ。ここがめちゃくちゃ大きいと思ってる。

 ぼくの具体的な理想像は、「負けてる時にも頑張った、楽しかった、その上で相手が上手かったな」って言い合えるチームだ。負けてネガティブな状況にあっても、お互いにガッツを出し合って、最後までちゃんとゲームに勝とうという意志を持ち続ける。もちろん、意味なく味方にマイナスな影響も与えないで、とにかく"チームであること"にプラスの意味を与える。ゲーム的な面でもだけど、コミュニケーション的な面でも。これが、ぼくの思ってる理想だと思う。

 でも、これってすごく難しい。

皆が同じじゃない

 ぼくは、先述の通り人と関わるのに単純にコストを支払うし、だからどうせならよくありたい。でも、皆がそう感じてるわけでもない。やり方が同じってわけでもない。上手くやれるってわけでもない。


 たとえば、そもそも誰かといてるってことが自然体な人もいる。たくさんいるはずだ。そういう人は、むしろ一人でいてることに苦痛を感じることが多いみたいだ。そういう人にとってチームアップってのは、特に理由なく行っていいことってことになる。

 特別じゃない。野良の延長線上で全然かまわないんだ。そういう人は、まぁもちろんいい体験が出来るコトを望んでるだろうけど、とはいえぼくみたいな「がっつりチームとして団結したいから、その為に労力を費やす」なんてことは望んでない、ってこともあるはずだ。そういう人にとって、ぼくっていうのは、妙にやかましく励まそうとしてくるなんかめんどくさいやつ……ってことになる。なりうる。


 別の視点で考えることも出来る。団結はもちろんしたい、でも自分の中のフラストレーションをコントロール出来なくて、不本意に仲間にネガティブな影響を与えてしまう人もいるだろう。かくいうぼくも、完璧にコントロールなんて出来てやしない。こういうのは、大なり小なり誰もが抱えてる問題だ。そしてそういう問題ってのは、一朝一夕で改善できる問題じゃない。メンタルコントロールは、対人ゲームにおいて一番難しい分野なんじゃないだろうか?

 そういう人は、たいてい自分の受けた苦を大っぴらに(あるいは時に過剰に)表現してしまう。心情としてはわかる。受けた苦を和らげる際に外部からの同情が欲しかったり、苦を受けたからしょうがないと釈明して、チーム全体に負担をかけたことへの追及を逃れたいっていう気持ちだと思う。絶対にそれをするなとは言えない。ぼくも無意識に少しやってしまうことはあるし。


 また、コミュニケーションが不得手だって人もいる。自分の中のフラストレーションはある程度割り切れてたりしても、味方に必要な情報を伝えたりするのが苦手。味方をポジティブに出来ない。そういう人もいるだろう。彼らに罪はない。でも、まぁ、そういう部分は誰かが補う必要は出てくる。これは前述の「得手不得手はカバーしあいたい」という部分にも共通してくるが、まぁ事実としては負荷だ。しょうがない。

 コミュニケーションに限らないけど、不得手なことを「不都合だからよくして」って伝えて即座に改善されるんなら、それは不得手じゃない。不得手ってのは、今まで試みたりしても上手くいかなかったから不得手なんだ。それを戦場のど真ん中でなんか無理。治せない。じゃあ、それってしょうがない部分だ。


 そう、しょうがない。

しょうがない

 割とこの、しょうがないって言葉を最近ずっと使ってる気がする。

 しょうがないってのは、いい言葉だ。過去起きた失敗に対して「あれはしょうがなかったね」と許し、「じゃあこっからどうしよっか」と前を向くよう切り替える。そういう言葉。

 ミスった味方によく言う。「あれは危ない場所だったね~」「行けると思ったんだけどな……」「そう思ったんなら、まぁ、しょうがないな。」なんでしょうがないかって言うと、その味方の判断でそう考えて、現実は違った。それだけだからだ。

 許すしかない。何かが起きて大変なことになったとしても、結局それが過ぎた話になったんだったら、許すしかない。自分が相手より強い立場なら、なおのことそうだ。だって、もう事実になっちゃったもん。仮にそいつが100%ダメなことをして全ての責任がそいつにあったとしても、もう事実だから受け入れるしかないからだ。だから、「しょうがない」。


 自分に対しても使ってる。自分がやらかして結構な負荷が味方にかかったな、っていう時って、だいぶメンタル面にダメージを受ける。なんでって、自分には強くなった敵の負荷がかかってて直接苦しい上、味方にはその余波が側面攻撃みたいにのしかかるわけだ。苦しくならない人の方が少ないだろう。

 そういう時、でも、結局勝つためにはそれを何とかしなきゃいけない。そう、「しょうがない」。負けた、狩られたとかを同ゲーム中の反省に活かすとかは大事だけど、少なくとも起きた事実に対して妙な責任とかを追求する必要はない、自分自身にも。今すべきことは、さっさと割り切って退却して味方と先に合流するかなとか、敵の動きを少しでも伝えて対応しやすいようにしようとか、次のことだ。

 そういう風にメンタルを立て直すって意味で、ぼくは自分にも言ってる。「しょうがない」。割とやせ我慢ではあるんだけど、でも、少なくともベコベコになった~苦しいよ~誰か助けて~~~って味方に泣きつくよりは100倍有効だ。戦いが終わるまでは、自分たちの勝利のために、がんばって向き合う。

 そのための、「しょうがない」。でも、あんま人から言われたことがない。

やせ我慢

 人がメンタル凹んでないか、楽しめてるかどうか気を遣い、んで、自分が苦しい時もへこたれないように表向き元気に振る舞い、気を立て直す。なるべく会話をゲームに向けてもらうようにして、でもずっとそれだと気も滅入るだろうから楽しいリアクションとかも噛ます。

 疲れる。めっちゃ疲れる。

 そこまでやる義理もないんじゃないのと思われるかもしれないんだけど、先述の通り、ぼくはやるんならちゃんとやらないとそれ自体に苦しむたちだ。何のために集まってるのかよくわからん感じになりたくないから、ゲームをちゃんと楽しめるように、皆に楽しんでもらう必要がある。

 でもそれとは関係ないところで起きる時にはいざこざが起きる。野良部分のあいつのせいでどうのとか、あいつの文句の言い方がうんちだとか、誰それが負けてとばっちり食ってるという物言いとか。自分外でそれが起きたらそれを宥めなきゃいけなくて、無限にゲームとは直接関係ない励ましのお手紙を送ることになるし、自分にそれが向いたら全力で申し訳ないわ~~って言いつつ、やる気はあるからここから頑張りますって虚勢張って自分自身を激励する。そういうことをしてるうちに、ふと頭に過る。

 これ、自分以外の誰かがやらんの?

 いや、よくないんだけど、この考えは。なんでよくないかって言うと、たいていそういうことをするのが一番得意(マシって意味でだが)なのがぼくだったりするからだ。そうじゃないかもしれないけど、あんまやんない。そういうのがめんどくさいからかもしれない。あるいは、そういうのが苦手でよくしたくても出来ないのかもしれない。

 そう。

 「しょうがない」んだ。

 自分以外の誰かがやることを期待するのって、何に関してもあんまりよくない。なぜかって言うと、他人がどういう風にするかって言うのをコントロールすることは出来なくて、真にコントロールできるのは自分だけだからだ。結局、それを考えるのは人のせいにしてるってことになるからだ。人のせいにしてるってことは、結局自分も気持ちをコントロール出来てないってことに行きつくからだ。

 だいたい、自分の理想からしてハードルが高い。そんなのを人がやらないから人のせいって言うのこそ、自分の価値観の押し付けそのものだ。勝手に自分が高望みしてるだけで、それが為されてないことに文句を言うのは何様なんだ。文句言うんなら、自分があらゆる敵に圧勝出来るパワーを手にしたらいいじゃん。

 ……という考えに至ると、いよいよマジで不毛になる。チームプレイを望んだのに、その帰結は「自分で全部完結するのが早い」ってワケ……


 あんまり健康的じゃないよね。健康が一番いいんだけどな。

まとめます

 たぶん、ぼくは場を気にしすぎてる。気にしすぎ、本当に。疎外感を覚えるのがイヤだし、それを人に感じさせるのもイヤ。でも、人によっちゃあんまり気にしない人もいるし、それは受け入れるしかない。結果的に疎外されるぼく。ここはしょうがない(根っから引きこもり気質だし、世界を嫌っているから)。

 苦しんでる中、前向きに楽しそうに頑張る人は本当に貴重だと思う。いや、自分の事を貴重って言いたいワケじゃないけど。でも、初心者指南とかをした人の何割かは感じたことあるんじゃないだろうか、「励ましてたけど心折れてやめちゃった」とか。感じたことがないし相手が定着してくれたなって人は、相手のガッツがあったりしたのかもね。ともかく、初心者に限らないけど、苦を背負ってる人は励ましたりしてほしいし、頑張ってたらえらいって言ってあげてほしい。いくらとばっちりにムカつこうと、死体蹴りはやめてあげて欲しい。たいていそういう人って、自分がやらかしてること、自分で十分理解してるから。

 困ったらしょうがないって思うといい。大抵の物事って、しょうがない。特に過去になったことは、どうしようもない。それにキレてると、そこから先の試合中の出来事は全部最悪になるし、なんだったら横にいるまた別の関係ない人まで最悪にしてしまう。せめてその人を不幸にしないであげてくれ。

 これらはチームゲームにあんまり限らない。"同じ場で遊ぶ"という事象にだいたい共通してると思う。

最後に

 最後の方がなんか無へのお願い文章になっちゃったけど、あくまでこれは誰かへのお気持ち文書とかじゃない。最初に言った通り、自分の中で感じていたフラストレーションを書き出してみて、自分で見つめ直し、どういう状態にあるかを確かめるためのものだ。(どっちかというとさっきの文章の相手は、ぼくの忌み嫌って憎んでいる「世界」に対するものだ)

 ぼくはこういう行為を時折必要とする。あんまり根のメンタルが強くないからというのもあるし、原因がはっきりしていないフラストレーションに対して本当に強く引きずりすぎるからだ。

 そもそもなんかベースの考え方がズレてるみたいなので、あんまり人がこれを読んでも役に立たないと思う。ぼくは思ってる。だから、ここまで読んだ人はなんか似たようなストレスを抱えていて共感を求めていたりするのか、あるいは、なんだろう。まぁ、読んでくれたという事実には一定の感謝を感じています。読まれるための文章でもないけど、関心を示してくれるということそれ自体はありがたいんだなあ。


 最後に、こういう文章に対して「こういう考えがある」という物言いは、実は歓迎していたりします。なんか返しが小足らしくて否定から入るかもしれませんが、別の視点から話す人と会話すると、自分のまだわかってない部分が発見できたりということは少なくないので。自由にしてください。自由にしろ。あと楽しくなれ。あらゆるものをあらゆる手段を用いて楽しくしろ。

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