終わりに

フロレンティア これは、誰かが海外に足を踏み出す一歩を後押しする為に書いた私の紀行文です。小説風になっているからフィクションと勘違いされる方もいるかもしれないですが、実際に本当にあった事しか書かれていません。それもこの時代は、インターネットなど有るには有りましたが、大半の方々が使う事はまだまだ先の出来事でした。数年が経ち香港に住んでいた時にパソコンを使えるようになってMiXiに投稿して仲間内で楽しんでいた文章に肉付けした物です。今の時代若者は島国日本に籠っていたら将来の選択肢が狭まる。どうか、何処でも良いから一度は海外に出て何かしら体験して欲しい願いを込めて今回noteに投稿する事に致しました。映像や動画、CGなどがもてはやされるようになって、こういった文章はどちらかというと置いてけぼり感は否めない。インスタやツイッター、Tik Tokなんか流行りのSNSにはもう文章というのは合わないと思っていたんですが、noteという物を見つけた時はちょっとだけ驚きました。中を覗いて見るといるわ いるわ物語の創作意欲に駆られたお仲間さん達が。

リニューアルして新しいタイトルを付けた
「フロレンティア」
フロンレンティアとはもちろん花の都 芸術の街フィレンツェの語源になった言葉ですが、もうひとつ フロンティア 国境 辺境 開拓といった意味も私なりに込めています。ネット環境も整っていなかった30年も前に海外に憧れだけで飛び出した者がいる。どうか今の若い人たちにも日本にだけ籠っておらず、たとえ金が無くても海外に飛び出す勇気を持って貰いたい気持ちです。フロンティアスピリッツを奮い立たせてこの国から出て行って欲しいばかりです。彼ら彼女らが、ちゃんと無事である事、何かしら変化を持つ事を願って。

「聖母の右腕」はフロレンティアを投稿していた途中で創作大賞を見つけて、「ジンガリとの闘い」というパートに肉付けしたものです。残念ながら本日発表された中間選考にも選ばれ無かったですが、読んで頂いた方が楽しんで頂けたのなら嬉しい限りです。

「フロレンティア」もちろん あれで日本へ帰国した訳ではないので物語は続いて行きます。
ポンテベッキョ語学学校をやめて、フィレンツェ大学の外国人用の語学学校に入学したり、
また様々な出会いや想い出になるような事が起こります。

あれから日本に帰る前にマルコと共にラッガの故郷であるアイスランドに寄らせて頂いた。
ラッガの家庭はとても裕福で父親がアイスランドにある米軍基地にある建物を管轄?している会社の社長さんで、ラッガはそこの9人兄弟!の末っ子だ。(お父上がお亡くなりになったという訃報は先日聞いて大変悲しかったです)
彼女は今ではマルコと結婚してノルーウェイで幸せに暮らしている。
マルコは、イタリアに居た時からずっとデザインの勉強をしていて、今ノルーウェイでVRのデザインをしている。
ミケーレは、コンピュータの仕事でアメリカに行っていたが、今はドイツに戻っていて家の庭に念願のピッツァの窯を作ると意気込んでいる。サッカーW杯や先日のバスケでドイツが日本とあたる際には、連絡しあっている。笑
アンドゥは最初はP&Gに勤めていたが、
今では世界的な大きな物流企業の偉いさんになっていて世界を飛び回っている。香港で2度、東京で1度会ったが、忙し過ぎて本当に分刻みだったらしく東京ではお茶しか出来なかった。
つい先日も東京に来たから会おうと言ってくれたのだけれど、こちらがコロナにかかった後で
まだ咳が出ていたので、残念ながら会えなかった。
何年も前の話になるが、物語には出てきていないルームメイトだったトムに会いにメルボルンまで行った。初めてオーストリアンフットボールの試合を生でみさせてもらった。30年前イタリア在住時代に彼のお父さんがトムを尋ねにきた。トムのお父さんは当時オーストリアでも有名な風刺画を描いている方だった。俺はそのお父さんに尋ねた事がある。「日本人をどう思いますか?」
トムのお父さんはこういった。
「うーん 何故日本人はこれから自分たちが住む地域で祝わずに、わざわざ海外まで来て祝うんだろうね?そう自分たちの結婚式をさ」
ハワイやオーストリアなどで海外ウェディングが流行っていたバブルが終焉を迎える時の時代だった。

タカシとスノウ、チービン、ムーン ガースとはその後会えていない。会いたいな。


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