1人で
「1人で?」とよく聞かれる。
ラーメンも、美術館も、barにでも1人で行く。ちょっと遠くに出掛けて、ゆっくりと散歩するのが好きで、気が済むまで街の景色を眺めて、その時間をどこまでも味わっていたい。1人でなにかするときは、だいたいそういうときだ。
「昨日何してた?」と聞かれる。
次は「友達と?」と聞かれる。
安心したいのだと思う。あなたには遊ぶ友達がいるのですか?と投げかけて、どこかで安心したいのだ。自分よりどこか優位ではない人間を探すことで、自分の価値を認めたいから。
僕がどこに行こうか、そんなことに興味はないのだろう。肝心なのは「誰と」なのか「1人で」なのか。
インスタのストーリーには、オシャレなカフェの写真だけではなく、同行した友達のアカウントまで載せる。自分の皿だけではなく、向かいの席に座る、友達の皿も少しだけフレームインさせる。どうしても1人だと思われたくないのだろうか。
みんなといるのが楽しいことなのかもしれない。みんなは、みんなといるのが普通で、みんなといるのが充実していることだと、当たり前のように考えている。だから、みんなも同じに違いないと思っている。前提をだれも疑おうとしない。そうやって気づかないレベルで教えられてきたのだ。
石は、周りの石と混ざって交ざって、角が削れて、やがてはだいたいが似たり寄ったりの形になると、地学の山田先生は言う。
人は、周りの人の、ちょっと頭良い人の、TwitterやInstagramで人気者の、会ったこともない表現者の、自分ではない誰かの考え方や正論にガシガシと心を削られて、やがては本当に感じていたこと、自分にしか感じられなかったなにかが失われていく。
いつか、本当にやりたかったことが分からなくなる。本当に混ざりたかったのか、本当はどうだろうか。
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