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自我を捨てれば、光あるもの、これ一心なり  

 「ショウジュマル、ショウジュマル、ショウジュマルや」と何度も呼んでいる。こんな山奥で、いったいどうしたのか?迷子になってしまったのだろうか?
 そう思いながら更に寺があるであろう方向に降りるにつれ、「ショウジュマル!」と呼ぶ声が近くなり、もう少しだと思った途端、目が覚めた。

 ああ、夢であったか。しかし、「ショウジュマル」という声ははっきり耳に残っている。さて、夢とはいえ「ショウジュマル」とは初めて聞くが、はたして、いったい誰だったのだろう。

 起きてから、妙に気になるので「ショウジュマル」をパソコンで調べると、幾つかあるなかの「松壽丸は一遍上人の幼名」というものを見て、ハッとした。
 というのも、むかし、母から祖先の系譜は伊予の越智・河野であるとよく聞かされていたからである。まあ、昔のことなど、どこまで本当のことなのかわからないし、それを知ったところで、いまの自分がどうなるということでもない。そう、子供心に思って、ほとんど無関心であった。

 この夢の後、やはり気になって、母方の伯父叔母である兄姉達がそれぞれ大事にコピーして残していた「家系図」が我が家にもあるので、はじめて、それを開いてみた。ずっと系図を辿って気になったのは「8人の子を亡くして、その子たちの供養のためにと、四十九ヶ所の薬師堂と八ヶ所の八幡宮を創建された河野親經」と過多であった。その後、親清・通清・通信。その子である通広。その通広の子が松壽丸といい、「河野通秀」即ち「一遍上人」のであった記録を見て、やはり「ショウジュマル」は一遍上人の幼名であることがはっきりした。
 
 (これはなんと!)と、非常に驚きを禁じえなかった。何か、佛縁の不可思議さに体が震えるものであった。

 それで、この夢に出てきた寺の山奥の景色や古びた山門は一体どこの寺だったのだろう?と気になり、一遍上人の所縁の寺を更にネットの画像で調べて見た。
 まさに驚いたことは、夢で見た山門とやや似ている寺を一つ見つけ、それを調べると、一遍上人が生まれ育った宝厳寺という寺と山門であったが、しかし、この本堂は新しい。調べると、この寺は近年、火災に遭い、再建されたばかりであった。

 そこで、この寺の古い写真はどこかにないかと探してみると、ちょうどこの寺の裏山あたりが写っている古い写真がネット上で見つかる。
 それを見て愕然とする。まさに、その寺の景観は、夢で見た山や道とそっくりであったのである。

 しかも、この夢を見た日は、我が母の命日であったのである。

  夢はだだ夢でしかないものだが、なぜ、今、このときに、一遍上人の幼名が夢に出てきたのであろうか?それが自分には不思議でならなかった。

  ちょうど、世界に激変が起きたときであった。新型コロナ感染症のパンデミック。プーチンが起こす戦争などならず者が支配する国家や宗教による極悪非道きわまりない暴力と破壊の応酬。欺瞞に満ちた搾取が世界中を横行している。更にこれまでの文明の付けがまわるかのように、大地震や気候変動に伴う自然災害が激化している。

 このような混迷するばかりの状況に、いまわれわれはなすすべを全てを尽くしても、なお、無能極まりないまま、現実の厳しさが跋扈するばかりである。 この苦しみと混乱を憂えて、一遍上人は何かを伝えせんとされておられるのであろうか?

 しかし、小生は恥ずかしながら、真言で育った事もあり、一遍上人のことはほとん知らないで今日まで来てしまった。
 せめてもと、『一遍上人全集』を取り寄せ、紐どいてみてどうか? ふと、一遍上人の播州法語集の一説に目がとまった。

 ある時の仰せに言われたことには、生死の苦は妄念によっておこる。しかし、妄執や煩悩には、拠り所としての実体があるわけではない。それなのに、この本末転倒した妄執の心によって、善悪を分別判断し、これによって生死の迷いを離れようとするのは、何の理由もないと、常に考えるべきである。何かを分別判断しようとすることが、迷いや苦からの脱却の障害となる。 だから、「念即生死(分別判断の中に既に迷苦がある)」と説いている。生死の迷苦を離れるとは分別判断を捨て去ることをいうのである。分別判断する心を持ったまま、生死の迷苦を離れ、念仏安心の境に入るということは、全く根も葉もないことと言えるのである。

 ある時の仰せに言われたことには、
『阿弥陀経』の「一心不乱」という文句は衆生の自力による一心不乱ではなく、名号自体にそなわった一心不乱なのである。
 もし、名号以外に心を求めたなら、それは念仏する人自身の心となるから、名号の一心と念仏者の一心とで二心雑乱とせねばなるまい。とても、一心とは言えない。
 だから、『称讃浄土経』には、「(慈悲をもて加へ祐けて、心をして乱れざらしむ) 阿弥陀仏が慈悲をもって、お力を添えて心が乱れないようになさる」と説いている。だから、 一心とは衆生の側でおこす我執の妄念の一心ではない。
南無阿弥陀仏。

 この一説に触れ、小生は心が打ち震えるのを禁じ得なかった。
 生涯かけて探求してきて、なお到らざる小生の迷妄をスパッと除いてくださる力強い一説であったのだ。
 一遍上人はブッダのように自我蒙昧の一切を捨てる「捨て聖」であった。しかし、あの「聖フランチェスカ」のように、南無阿弥陀仏である神の光を一心不乱に、混迷に懊悩するあらゆる人々の中に入り、わけへだてなく、神の愛、弥陀の慈悲を享受せしめる僧であるのであろう。

 混迷する現代に、この「松壽丸や」と呼ぶ声を通して一遍上人がお伝えくださったのは、「生きとし生けるもののいのちは慈悲と愛と英知の光り輝く弥陀の本願から来る本不生のかけがえのない命であることを忘れるな!」ということであったのかもしれない。

 「自我による虚妄を捨てれば、光あるもの、これ一心なり」と。

 混迷する時代とはまさに今日目の当たりにしている「自我に翻弄されるものの」時代である。人は、こうしたならず者のような悪魔化した自我の前になすすべもないというのであろうか?そうではない。悪魔の如き所業をしかと見据えねばならない。そこに起こる現実を直視して君はなにを見るのかね。いのちは本不生の源泉から刻々ともたらされ、遍満する光あるものの中で刻々に生かされている。先ず、自我の欺瞞性を打ち砕かねばならない。虚妄のなせる業に恐れず、われわれはそもそも汲めども尽きせぬいのちの源泉、光あるものとして生かされている。そのかけがえのないいのちを喜び謳歌できる時代を築けというのであろう。

                       

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